『物ぐさ道草』荒井とみよ著(編集工房ノア)
[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)
戦後の日本で、フランス文学者でありつつ、幅ひろい評論活動を続けた多田道太郎。その人物が多忙のかたわら「日本小説を読む会」を、毎月の定例で四十年近く続けていた。会の初期から加わっていた著者が、「師」と仰ぐ多田の著作を読み直し、その人柄について回想する本である。
多田は一九七〇年代以降、「しぐさ」や「笑い」を主題にした日本文化論を数多く発表し、軽やかさや遊びに目をむける社会の風潮のうちで広く読まれた。だが著者、荒井とみよは、本人のふるまいに特徴的だったのは「微苦笑」だったと回想する。民主主義運動や人権擁護運動の周辺にもいながら、距離をとり続けた多田。その背後に、終戦直後に軍隊から脱走するという複雑な経験があったことを、本書は明らかにする。
説話の「物ぐさ太郎」に注目し、「読む会」ではユーモラスなやりとりを繰り広げる。そうした軽やか、華やかな表情の奥にわだかまっていた屈託を、荒井はとりだす。ありきたりの戦後史の叙述からはこぼれ落ちてしまうような、魅力的な陰影がそこに示されている。