日本の根性論が嫌、でも欧米の技術論にも疑問……限界を超えるために必要なものは何か? 元陸上選手・為末大と能楽師・安田登が語る

対談・鼎談

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熟達論

『熟達論』

著者
為末 大 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
社会科学/社会科学総記
ISBN
9784103552314
発売日
2023/07/13
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

身体を通して学ぶおもしろさを読む

[文] 新潮社


為末大さんと安田登さん

 壁を越え、先に進むために必要なものは何か?

「走る哲学者」と言われる為末大が、半生をかけて考え抜き、様々なジャンルの達人たちとの対話を重ねて辿り着いた方法論をまとめた『熟達論―人はいつまでも学び、成長できる―』(新潮社)を刊行した。

 この現代の「五輪書」ともいうべき一冊に共感したのは、650年続く能の演者・安田登さんだ。為末の方法論に共感した理由とは? そして正解のない世界で経験と思考を往還しながら到達した極意とは?

 お二人が語り合った対談をお届けする。

安田登×為末大・対談「身体を通して学ぶおもしろさを読む」

安田 もう、二回も読み返してしまいました、この『熟達論』! 何度も読み返せるよい本ですね。

為末 ありがとうございます。長く陸上競技をし、引退してから十年、私にとっての集大成となる一冊です。

安田 陸上競技やスポーツとは違う他の分野でも通じるテーマですね。何かを学び「熟達」という究極の状態に至るまでを五段階「遊」(不規則さを面白がる姿勢)、「型」(思考や行為を変える習慣)、「観」(視覚のみならず全身で行う観察行為)、「心」(無意識で中心を取り、自在に動くことで個性の表現が可能に)、「空」(自我がなくなり、解放されて自他が曖昧に)に分けて、為末さんがご自分の経験と発見を通じて模索していく。
「空」の段階は世阿弥が書いた『遊楽習道風見』とも通じますし、「型」についても膝を打ちながら読みました。

為末 この本は能を意識して書いたところもあって、ぜひ「型」については伺いたかったんです。これまでに「型は必要ですか」と何度聞かれたことか。

最初は「型」と模倣ばかり

安田 私が能の世界に入ったのは、高校教師を経て、二十代後半です。稽古を始めて、舞台に上がるまでが長かった。とにかく、型の稽古を繰り返しました。
 能でいうと、「型」とは舞などの動きや所作のことで、無意識にこれができるようになるまで稽古をします。

為末 「型」と一言で言っても、それぞれの分野で違う内容ですしね。

安田 観察と再現については「観」のところで書かれていましたね。模倣したい相手を観察しながら、動きが同じになるように意識する部位を変える、とある。しかし、能の稽古では鏡を使わないんです。

為末 それでは、師匠の真似をひたすらするということですか?

安田 師匠が手を挙げたらこちらも挙げる。プロプリオセプター(固有感覚受容器)の感覚です。でも、同じ動きをすればいいというわけではありません。

為末 最初の段階では、見たままにしかできないから混乱しますよね。

安田 その混乱も稽古なのですが、師匠の考え方や感じ方を身につけることが「模倣」であって、形を模倣するのとは違うので、そりゃ大混乱です。でも、そのまま十年以上も混乱しながら模倣が身に付く過程をゆるゆる楽しむ。ストレスもありますが(笑)。

為末 十年ですか。引退してから、この本を書き始めるまでと同じ年月です。

安田 実は、弟子になりたいという人と事前に約束するのは、「十年間辞めないこと」です。辞めようと思うのは、疑問を感じるからです。でも十年以内の疑問なんて大したことがないものです。十年間は、僕がいいというまで質問もしないでもらいたいくらい。

為末 まさに丸呑みするんですね。第二段階の「型」で書いたのと同じです。マニュアルに落とし込んで丁寧に明文化するのとは違う世界ですね。

安田 最初のうちは、模倣で師匠に到達しようとします。不安を感じながらも自分が変わっていくわけです。


為末大さん

為末 見えるそのままではない?

安田 最初に師匠とテレビに出た時に、後で叱られたんです。理由は師匠と同じように歩いたから。「お前と俺とでは体型が違うだろう。同じ足運びになるわけがない」と。師匠との間をキープするのは大事ですが、足を合わせるわけではない。

為末 内側の力の入れ具合とか。でもそれは見えないですよね。

安田 そもそも、師匠は舞台に上がるまで「それでいい」とは決して言いません。当日の朝の稽古でもダメ出し。

為末 迷いが出ませんか?

安田 出ますけど、ダメ出しが繰り返されると麻痺します(笑)。型を繰り返しつつも、わからない感覚のまま舞台に立つんです。

為末 型が身体に入っているからできることですね。でも、能は、一回公演が多いのに、全体がよく合いますよね。

安田 普段の演目は、シテ、ワキ、囃子方はそれぞれ体に入っていますから、簡単な打ち合わせだけで合わせられます。ちなみに「打ち合わせ」の語源は音を合わせることで、このことです。四十五分前に急に代役を振られたことがあります。稽古もしたことのない演目で、詞章もその場で覚えた。動きはアドリブでしたが型があるからできる。

為末 無意識でできるように、型があるんですね。でも、スポーツでは、むしろ型が入っていると個性が無くなると言われます。どう思われますか?

安田 ロボット工学の石黒浩さんと人工生命研究の池上高志さんが、人間が機械に人間らしさを感じるポイントを研究するために開発した、「機械人間オルタ」というロボットがいます。思考実験として、完璧なAIの仕込まれたオルタと人間の生身を持つ僕、安田が、同じ能の稽古をした場合を比較しました。

為末 ご著書の『能』(新潮新書)にありましたが、最先端の研究に能がつながるのは興味深いですね。オルタと勝負すると、単純な記憶力と体力では、安田さんが負けそうですが……。

安田 そう、一週間に毎日二時間、師匠に習うとして、オルタはすべてを覚えていますが、僕は後半から疲労で記憶力が落ちて、物覚えも悪くなる。繰り返していくと、差は広がるばかり。間違えて僕は怒られます。しかし、その穴を僕は自分のリソースで埋めていく。

為末 ご自分の中にある何かで。

安田 最初はそのリソースが弱いのでダメですが、だんだん何とかなるようになります。そして、師匠も常に変わり続けています。ですから、もし途中で師匠がいなくなったら、オルタは「師匠マイナス1」で止まってしまいます。しかし、人間である僕は自分のリソースを使って、師匠とは違う芸風を作っていく。その違いがあります。

為末 師匠の真似そのままのオルタと、真似て自分らしさが漏れ出ていく安田さん。十年続けると、変わりますね。

安田 稽古を続けると、自分らしさのようなものは隠し切れません。それが人間なんです。だから、わざわざ個性などを強調しなくてもいい。強調したものなんて表層的で、つまらない。

為末 表情をつくる際に、顔を大げさに動かすよりも、無表情の顔のどこかをちょこっとでも動かす方が「らしさ」を感じるように思います。装飾を省いた、オリジナルになる。

安田 三十代の頃にある演目をやることになったものの、本当にできなくてストレスだったんです。師匠は一度もいいなんて言わないし、吐いてしまうほど。でも、最後に舞台に出るときに師匠が「暴れてこい」と背中を押してくれました。重い圧がバーッと解放されましたね。気持ちよかった。

為末 演じられていて、いい時と悪い時、どんな感覚の違いがありますか?

安田 自分が「いい」と感じる時はだいたいがよくないんです。何をやったか覚えていない時の方が後からよかったと言われます。お客さんもよく見てくれているんです。「観」で書かれていましたが、大事なのは内部から自分を見る視点だけではない。

為末 「離見の見」と世阿弥は言いますよね。自分を離れて観客の立場の視点で見ることだと理解しています。

新潮社 波
2023年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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