『叩く』
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小説に漂う不穏な空気が示す 現実世界の得体の知れなさ
[レビュアー] 大竹昭子(作家)
小説を書く行為は、作者のなかに生起する数々のイメージを選択し、結びつけ、描写していくことの繰り返しである。筋立てにそってそれが行われる場合もあれば、結びついたイメージが自ら物語を生み出していく場合もあり、どちらに傾くかは作家によってちがう。高橋弘希はまちがいなく後者だろう。
話がどこに向かうかわからないが、意図的にそうしようとしているとは思えない。先がわからないのは作者も読者も同じであり、両者が同じ地平に立っているという平等感がある。物語を支配しようという欲がないのだ。
五篇の短篇のうち、表題作である「叩く」は「目が覚めたとき、佐藤は見知らぬ家の居間で身体を横たえている自分に気づいた」とはじまる。「空き巣の補助」を依頼されて同行したが、金庫から現金を出した直後に依頼人に殴られ、その家の老婆とともに残された。老婆は猿轡をされているが目は見えており、佐藤の顔を記憶している。殺って逃げるしかないと知りつつも、踏ん切りがつかないでいると、意外なものに背中を押されるのだ(表紙の写真にヒントがある)。
二篇目の「アジサイ」は「妻が家を出てから、庭にアジサイが咲いた」とはじまる。妻の家出とアジサイの開花にはなんの因果関係もない。だが、男の心のなかでそれらが結びついていき、ある瞬間、意識のスイッチが入るのだ。
芥川賞を受賞した「送り火」もそうだったが、高橋弘希の小説では思いがけないものが思いがけない結びつき方をする。小説のために思いつかれたという印象はなく、現実は突拍子もないものだという実感が作者のなかでほとんど思想化しているのを感じる。つまり、小説に漂う不穏な空気は、現実世界の得体の知れなさと等価であり、それを意味ではなくイメージの結合によって構築していく手さばきが見事だ。