『わが忘れえぬ人びと 縄文の鬼、都の妖怪に会いに行く』山折哲雄著(中央公論新社)

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わが忘れえぬ人びと

『わが忘れえぬ人びと』

著者
山折哲雄 [著]
出版社
中央公論新社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784120056581
発売日
2023/05/24
価格
1,540円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『わが忘れえぬ人びと 縄文の鬼、都の妖怪に会いに行く』山折哲雄著(中央公論新社)

[レビュアー] 橋本五郎(読売新聞特別編集委員)

自分自身を生きる

 技術万能の「AI神」が支配する現代にあって私たちはどう生きるべきか。宗教学者というよりも優れた文明史家である著者が「縄文の鬼」である棟方志功と土門拳、「都の妖怪」ともいうべき河合隼雄と梅原猛を通して考えた思索の書である。4人に共通しているのは何か。誰でもない、自分自身を生きようとしたことだ。

 棟方志功は興福寺の須菩提を見て、「二菩薩(ぼさつ)釈迦十大弟子」を彫ろうと思いついた。十大弟子は別世界の人間がこの世間に躍り出てきたような喜怒哀楽の激しい顔をしている。しかし、肝心かなめの釈迦が出てこない。「耶蘇(やそ)十二使徒」もそうだ。イエス・キリストその人があとかたもなく消去されている。中国の禅僧、臨済という眼光鋭い坊さんは言った。

  師に会うときは 師を殺せ  主に会うときは 主を殺せ

 そんなものにこだわらず、さっさと乗り越えて先に進んでいけということだ。棟方は生まれながらにしてそう生きた。

 棟方志功の前に一人の師もなく、棟方志功の後に一人の弟子もいなかった。土門拳も梅原猛もそうだ。梅原は哲学の徒として出発、やがて歴史の叢(くさむら)に入った越境者だった。自己再編の過程でニーチェのシャワーを全身で浴び、ルサンチマン(憎悪)の議論に強烈な刺激を受けた。しかしその後、ニーチェの憎悪の哲学をくぐり抜け、大いなる肯定の哲学へと進んでいった。

 梅原は京都の祇園で司馬遼太郎と飲み、『空海の風景』を書いた司馬に、「そんな『風景』ぐらいのことで空海密教の本領がわかってたまるものか」と吠(ほ)えたという。この妄言に司馬は激怒したともいうが、梅原はどのような場合でも、他人ごとではなく、自分ごととしてものを考え、語る哲学者だったのだ。一人の師も一人の弟子もいない独立独歩の生き方への共鳴と渇望。この書から山折哲雄もまた「自前の思想」を追い求めてきたことがよくわかるのである。

読売新聞
2023年8月11日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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