「『大漢和辞典』の百年」池澤正晃著

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『大漢和辞典』の百年

『『大漢和辞典』の百年』

著者
池澤正晃 [著]
出版社
大修館書店
ジャンル
総記/総記
ISBN
9784469232875
発売日
2023/11/16
価格
3,740円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「『大漢和辞典』の百年」池澤正晃著

[レビュアー] 橋本五郎(読売新聞特別編集委員)

出版人の信念 「奇跡」呼ぶ

 歴史に残る辞書というのは「奇跡」の所産かもしれない。33年の歳月をかけ全13巻を刊行した諸橋轍次『大漢和辞典』の足跡を本書でたどりながら、その思いを強くした。しかも「奇跡」は突然、偶然やって来るのではない。不抜の志と血のにじむ努力の彼方(かなた)にあるのだろう。

 もちろん、世界最大級の漢和辞典は諸橋の存在なくしてあり得なかった。しかし、受験生相手の参考書しか出していない無名の小さな出版社大修館の鈴木一平が、1年半近くにわたって諸橋に懇請し続けなければ、そもそも生まれ得なかった。「完全な大辞典」をつくるため一平は自分の資力と体力の一切を注入して事業完遂に一生を捧(ささ)げようと決心した。

 一平の妻ときが関東大震災の際、5歳の娘を背負い8か月の身重で活版印刷の命ともいうべき受験参考書の紙型を運び出し、30万円の利益を得なければ辞典出版に踏み切れなかった。一平は自分が事業半ばで倒れて刊行出来なくなることを恐れ、大学生の長男と旧制高校生の二男の学業を断念させ経営に参加させた。

 『大漢和辞典』は出版契約から15年後の昭和18年、待望の「巻一」が出た。この時の内容見本には、3年後に全13巻が完結、全巻に使用した活字を縦に積み上げれば富士山の3倍半、敷き詰めると157坪になり、事業に携わった延べ人数は20万6982人になる、とあった。

 ところが、昭和20年2月、B29による東京空襲で大修館は事業所も工場も全焼した。『大漢和辞典』の活字もすべて鉛の塊と化してしまった。さらに諸橋が失明に襲われるなど幾多の苦難を乗り越え、昭和35年5月、最終巻「索引」が刊行されて完結したのだった。

 大辞典完成の背後には、諸橋の友人・知人、弟子たち、編集者、校正者、印刷工、製本工などの様々な献身があった。しかし、最大のものは鈴木一平の出版人としての信念だと言うべきだろう。

 「いやしくも出版は天下の公器である。一国の文化の水準と、その全貌(ぜんぼう)を示す出版物を刊行せねばならぬ。これこそ出版業者の果たさねばならぬ責務である」(大修館書店、3740円)

読売新聞
2024年2月23日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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