「ムツゴロウさん」が借金返済に忙殺されて叶わなかった、「命を賭けよう」としたこと

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

生きるよドンどん

『生きるよドンどん』

著者
畑 正憲 [著]
出版社
毎日新聞出版
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784620327853
発売日
2023/07/24
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

こんな風に生きられたらウソを書く必要なんかないだろうな

[レビュアー] 乗代雄介(作家)

 一人の作家の本を全て読む。私が十代で初めてそれを成し遂げた相手は、畑正憲だった。テレビで見るムツゴロウさんは子供心にもヤバい人だったが、何十冊とある著作を読むごとに見識の深さと世界のおもしろさを思い知らされた。あれから二十年、その人は亡くなって、晩年の連載エッセイが本になった。

 数年前のインタビューで、テレビを辞めたら文学に専念するつもりだったと話していた。「文章に命を賭けよう」と考えていたが、動物王国で抱えた数億に及ぶ借金の返済に忙殺されて叶わなかったそうだ。

 普通「命を賭けよう」なんて言えば笑われるが、そこは誰がどう見てもさんざん「命を賭け」てきた人間、信じさせる凄味がある。本書も、巨大アナコンダに首を絞められる有名な話をはじめ、ページをめくればすぐ命の危機だ。だからこそ、自然、動物、ギャンブル、病気、どんな話も命ある喜びに満ちている。

 こんな風に生きられたらウソを書く必要なんかないだろうなと思う。フィクションも書いたけれど、この人の根底には現実のおもしろさに対する無条件の降伏があり、幸福もまたそこにある。それが、作家としてこの世界を体験して書かねばという強い意志に繋がっている。

「私は作家です。自分が行ってもいないのに、取材だけでは書けません」とは、海底写真集の文章を担当することになった若い頃の発言だ。知らない場所を写真だけ見て書くなんて作家のやることではない、書くなら命がけで「もぐります」と言うのだ。写真を見て自分が体験したように書けてこそ作家だと言う人もいるかもしれないが、違うのである。

 この態度は、八十歳を超えて書かれた本書でも変わらない。気軽に楽しく、驚き呆れて読めるのに、水面下にはこのすばらしい世界を生きる作家としての矜恃が渦巻いている。畑正憲の文章は最後までそうだったんだと嬉しくなった。

新潮社 週刊新潮
2023年9月7日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク