「毒のような傑作」重度障碍者から見た世界を描いた芥川賞受賞作 美学者・伊藤亜紗が紹介

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ハンチバック

『ハンチバック』

著者
市川 沙央 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163917122
発売日
2023/06/22
価格
1,430円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

非同期無調性

[レビュアー] 伊藤亜紗(美学者・東京工業大准教授)

 体に障害があると、行為は細かく分割されることになる。「おーい」と呼ばれたとしよう。その人が健常者なら、「はーい」と立ち上がって小走りでそちらに行くだけだ。しかし障害があれば、喉に装着した呼吸器を用心して外し、湾曲した背骨のせいで右肺が潰れるのを感じながら、バランスを保ちつつそっと左側からベッドを降り、ドアの桟に頭を激突させた痛みに耐え、爪先だけ床につく左足を引きずりつつ、そちらに行かなければならないかもしれない。ヘルパーのスケジュール調整や機械のメンテナンスのことを考えたら、「おーい」と呼ばれて到着するのに数週間かかることだってあるだろう。

 結果として失われていくのは、他者との同期である。健常者のコミュニケーションは、ノリやタイミングに大きく依存している。そうした同期を行うことで、仲間としての同質性を確認したり強化したりしているのだ。しかし本作の主人公である重度障害者が生きているのは、そうした同期の外にある世界だ。彼女はそれを「無調的atonal」と呼ぶ。「うそ寒い長調の会話など奏でる才能のないわれわれは短調で、いや、シェーンベルクの不協和音のように枠を外して本音を語ることができる」。調性によって同質性を居心地よく整えながらコミュニケーションしている健常の読者にとって、本書の言葉が身に刺さるように「痛く」感じられるのは当然のことだ。

 そんな主人公は、ウェブサイトに粗悪なエロ小説やエロ記事を投稿しつつ、普通の女の子のように性交して妊娠したあと、中絶することを夢見ている。ウェブとエロ。この二つは主人公にとって、他者を自らに引き込み、同期させることを可能にするツールである。「他者」は、エロ小説やエロ記事を読む女性であったり、ヘルパーとして彼女を介護する健常者の男性であったり、この作品を読む私たち読者であったりするだろう。主人公がiPad miniで書き込むあえぎ声は「読者の「蜜壺」をひくつかせて」小銭を得るためだし、男性器を口に含めばそれが「ちゃんと機能する」ことを彼女は確認している。

 こうした同期はもちろん、身体的差異を超えて他者とつながりたい、というような単純な欲望のためではない。精神的結びつきを欠いたエロは、貶められた自己の価値を他者の身体を使って半強制的に承認させる暴力へと容易に反転する。さらに、そこに「どうせなら健常者に欲情されたい」という欲望が伴うなら、障害者でありながら障害者を蔑視するというセルフスティグマがからまってくることになる。したがってこの同期は、他者と己の双方にとって破壊的な結果しか生み出さないように見えるが、親の遺産によって守られてきた主人公にとって、それこそまさに望むものである。「金で摩擦が遠ざかった女から、摩擦で金を稼ぐ女になりたい」。

 主人公を「彼女」と代名詞で言い換えることさえ、何だか手続き的に間違っているように思われる。そのくらい、既知の何かに置き換えて安心することができない、立ち直るのにしばらく時間のかかる作品だった。毒のような傑作である。

河出書房新社 文藝
2023年秋季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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