『ハンチバック』市川沙央著(文芸春秋)

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ハンチバック

『ハンチバック』

著者
市川 沙央 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163917122
発売日
2023/06/22
価格
1,430円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『ハンチバック』市川沙央著(文芸春秋)

[レビュアー] 小川哲(作家)

難病と生きる「本当の声」

 本作は「ミオチュブラー・ミオパチー」という先天性の難病を抱え、人工呼吸器と電動車椅子を使用しなければ生きていけない人物が、身体上限られた選択肢の中から、自らの願いを成就させようとする物語である――というように概要をまとめたとして、あなたは一体どんな話を想像するだろうか。

 これまで小説が果たしてきた役割の一つに、「読み手の想像力を拡張する」というものがある。見逃されてきたマイノリティの声を拾い、それまで誰も気にしていなかったハラスメントを糾弾し、まだひっそりと進行する暴力の萌芽(ほうが)に目を向けさせる。多くの人が病名すら知らなかった難病の存在を認知させることもまた、小説の役割の一つである。自分がどれだけ恵まれて生きてきたのかを知り、自分の知らないところで苦しんできた他者の存在を知る。

 本作は前述の意味において、間違いなく「読み手の想像力を拡張する」小説である。本作を通じて、我々は「ミオチュブラー・ミオパチー」の症状を知り、背骨の形のせいで右方向を見ることができない生活を知り、心臓と肺が背骨とコルセットに挟まれて息苦しく感じる人がいることを知る。しかし本作は、「憐(あわ)れみ」や「同情」で終わらない。たとえば、「息苦しい世の中になった」という日本語を口にするのは、世界に適合できずに苦しんでいる弱者だろう。本作の語り手はそのような言明に対し「本当の息苦しさも知らない癖に」と考える。電子書籍が普及していく時代に紙の本の素晴らしさを説く「本好き」は、読書姿勢を保ちながら本を持ってページをめくることができて、書店へ自由に買いに行けるという「特権性」に気づいておらず、傲慢(ごうまん)であると考える。「想像力の拡張」が呪いの言葉のように読者の胸に刻まれ、安易な同情が刃物になるという事実を突きつけられる。そしてこの呪いこそが、「想像力の拡張」という殻の奥にある、小説の本当の価値なのではないか。

読売新聞
2023年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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