『そこまでして覚えるようなコトバだっただろうか?』
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<書評>『そこまでして覚えるようなコトバだっただろうか?』松波太郎 著
[レビュアー] 豊崎由美(書評家・ライター)
◆実験的な筆致に切実さ込め
無邪気に野放図に使ってきたな、日本語。なんなら、書評家なんて職業を選んでいるくらいだから、得意がって使ってる気味もあったな、日本語。そんな気分にさせられるのが松波太郎の最新作品集なのである。
「き」が発音できないから、「き」をあまり使わないモンゴルに“帰りたい”と願うクィ。生まれてこの方、クィが経験してきた艱難(かんなん)辛苦を、書くという行為でなら「き」が使える<わたし>が記述した、というスタイルの「故郷」。
双極性障害よりも、「躁鬱(そううつ)」という漢字で示される症状のほうがしっくりくる<わたし>が、ひらがな、カタカナ、漢字を用いて、スポーツバラエティ番組「SASUKE」の障害物をクリアするように、文字と向かい合うさまを描いた「あカ佐タな」。
デビュー作や『LIFE』に登場した猫木豊が、ダウン症の我が子に課された日本語習得のあれこれを前にして、言葉は<そこまでして覚えないといけないようなものだっただろうか?>と立ちつくす「王国の行方-二代目の手腕」。
母語として当たり前のように使っている日本語を解体する、異化の効果が見事なこの3篇に加え、身体の解放を描いて素晴らしいのが「イベリア半島に生息する生物」だ。
主人公はサッカーが上手(うま)い高校1年生のタロー。でも、自分の動きを指示されコントロールされることにうんざりしていて、どうして自分がサッカーをしているのか疑問を抱いている。そのタローが3カ月間のサッカー留学でスペインの田舎町へ。ところが練習中に、タローの肉体はそれまで自分をしばっていた外からのくびきどころか、脳の指令からも解き放たれて、勝手にどこまでも走り続けてしまうのだ。その異様な光景が爽快。自分自身をしばっているあれやこれやを思って、タローに何かを託したくなる。タローのように別の生き物になれたらと願ってしまうのだ。
実験的な筆致をとっているのに、切実な思いに直結してくる。松波太郎だから書ける4篇なのである。
(書肆侃侃(しょしかんかん)房・2090円)
1982年生まれ。作家。著書『カルチャーセンター』など。
◆もう1冊
『LIFE』松波太郎著(講談社)。野間文芸新人賞受賞作。