『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』
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私が恋しいと思っていたのは
[レビュアー] 北村薫(作家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「化粧」です
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夜目遠目笠のうち―という言葉があります。はっきり見えなければ美しく感じられる、というわけです。そこに想像力の化粧があるといってもいい。想像力は創造力でもありますね。
一方、舞台のメークは、俳優を別の人間にする仮面ともいえます。
菊池寛の短編集『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』に収められた、表題作ほどには知られていない作品「ある恋の話」は、〈私の妻の祖母は〉と始まります。かつては蔵前小町と呼ばれた美しい人でした。十七で、千万長者の家に嫁ぎましたが、その翌年に相手が急死。生まれた子供を連れて別居。以来、お金には困らず、穏やかな暮らしを続けてきました。
その祖母の、昔がたりが面白い。娘がもう五つ六つになった頃からは、物見遊山にも出掛けるようになります。浅草の守田座の芝居に行くと、染之助という若い役者が出てきた。夢に見るような美しさ。この人の演技が大げさでなく、真実味があり、胸に響くものだった。型通りでないところが、客にはうけないようだが、それだけに祖母の思いはつのる。
ところがある日、たまたま素顔の染之助と出会います。現実の彼は、〈卑しくて下品〉な小男でした。
〈私が恋しいと思っていたのは〉舞台の上の虚像だった―と思い、守田座へ行くこともなくなりました。
さて、どうなることでしょう。
新潮文庫版には、吉川英治名義で作者の書いた解説もついています。