『思い出トランプ』
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ずるそうだが目の放せない愛嬌があった
[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「定年」です
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向田邦子の「かわうそ」を読んでいたら、冒頭近くに「停年」の文字があった。この表記を見なくなったのは「停」という字のイメージを嫌ってのことだろうか。
この作品を含む短篇3作で向田が直木賞を受けたのは1980年。このあたりが「停年」と「定年」の端境期だったように記憶する。
「かわうそ」では、脳卒中の発作を起こして療養中の夫・宅次から見た妻の姿が語られる。宅次は停年まで3年、妻の厚子は9歳下である。初老にさしかかった夫と、若さを残す40代の妻という設定が効いている。
一日中家にいることになった宅次は、厚子の言動に微妙な違和感を覚え始める。こまめに立ち働き、ときに罪のない嘘をつく、おきゃんで可愛い妻。だが宅次が倒れると、妻は200坪ある庭にマンションを建てる話を進め始める。それは宅次が「停年後でいい」と反対していた件だった。
小さな違和感から、芋づる式によみがえってくる過去の妻の姿。宅次は以前デパートの屋上で見たかわうそを思い出す。ぽかんとした顔をしているが、左右に離れた小さな目は油断なく動き、餌の気配を感じると、先を争い、キイキイと騒ぎ立てて催促する。
〈厚かましいが憎めない。ずるそうだが目の放せない愛嬌があった〉。そんなかわうそに妻は似ていた。
そして宅次は、かわうそのある習性から、三歳で病死したひとり娘のことを思い出す―。夫婦の日常を淡々と描きつつ、ぞっとする後味を残す名短篇。