『ペーター・カーメンツィント』
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俺はもう故郷を持たない人間なんだ
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「望郷」です
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ヘルマン・ヘッセの長編第一作は『ペーター・カーメンツィント』(猪股和夫訳)。主人公の名前がタイトルになっている。日本では長らく『郷愁』の題で親しまれた。そうつけたくなる気持ちもよくわかる。
アルプスの村に生まれたペーターは夢想家で、孤独癖が強く、なかなか人と打ち解けられない。家を出て各国を遍歴するが安住の地は見つからない。
やがて、体が不自由なボッピと知り合い、共に暮らし始める。彼を助ける中で初めて他人と心を通わせる体験をする(その描写はじつに優しく美しい)。だがボッピは早世してしまう。
作家になる夢を抱きながら、いつになっても方向の定まらないペーターの人生である。自分は「永遠によそ者」なのだという彼の苦しみの大本は、いやしがたい望郷の念のうちにある。
作品冒頭、故郷の湖や山や川がまるで神話の世界であるかのように描かれる。「始まりは神さまの物語だった」と高らかに宣言する、雄渾にして詩的な調子の高さに驚かされる。ペーターの心身にはかの地の記憶があまりに深く根を下ろしている。だから「低地」で暮らすことなど不可能なのだ。
「俺はもう故郷を持たない人間なんだ。山々を永久に奪われてしまったのだ」
そんな思いから逃れるには、故郷に帰るほかはない。かくして、ここにはひたむきな田舎賛歌がある。ヘッセ自身、小村の出身で「都会人」になろうとして挫折し、スイスの村に定住してノーベル賞作家となった。