広報誌からたどる「岩波文化」

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広報誌からたどる「岩波文化」

[レビュアー] 稲垣真澄(評論家)

「一冊の本」「本」「春秋」「創文」「波」「ちくま」「みすず」「UP」「本郷」……といった一連の雑誌がある。出版社PR誌と総称されるものだが、多くの人は、出版社のPR誌といえばほとんど代名詞のように岩波書店の「図書」を連想するだろう。古さでは明治三十年創刊の丸善「學鐙」が群を抜くにしても、輸入洋書ではなく国内書籍を宣伝・PRする雑誌としては、昭和十一年創刊の「図書」が現存最古であり、多くの同類誌のモデルにもなってきた。

「図書」は岩波書店自身によっても同社の旗艦的「機関誌」、フラッグシップ・マガジンと位置づけられてきた。本書は同誌八百号の歴史をたどることによって、オビの惹句を借りるなら「教養主義のいま」「『岩波文化』の現在」を問おうとするメディア史の試みにほかならない。オビの惹句はふつう著者ではなく出版社が作る。とすると、みずから「岩波文化」をもって任じ、それをそのまま「教養主義」に置き換える出版社側の自意識の高さにまず驚く。さすがに著者は、そんな自意識に寄り添うことをしない。もう少し物事を相対視しようとする。

「図書」は昭和十三年に改題される以前は、「岩波書店新刊」「岩波月報」と呼ばれていた。もともとが自社刊行物の新刊案内である。改題を機に「書物雑誌」の風味が強くなったものの、岩波の広告メディアとしての性格が失われることはなかった。ただ、宣伝・PRの仕方がむき出しでないというだけだ。ここで文化史なら掲載エッセー・対談の内容に注目するところだが、メディア史はむしろ文化と教養を売ろうとする岩波の広告戦略と、それが同時代の人々にどのように受け止められたかに焦点を当てる。教養とメディア(広告)のせめぎ合い、さらにいえば「教養メディア」(教養の広告)の成立こそ「図書」の、岩波文化の活力のもとだったというのだ。

「図書」の特長の一つは、少数の執筆者の度重なる登場といえよう。たとえば四百号までの段階で吉川幸次郎・一四六回、湯川秀樹・四四回、松方三郎・二九回、大内兵衛・二五回、坪井忠二・二一回……という具合。岩波の本の著者でもあるこれらの人々が、批判を含めて互いに言及しあう一種の公共圏ができあがっており、それが読者にはなによりも輝いて見える。結果的に宣伝にもなる。

 これはやはり「図書」が、基本的に乏しい時代のメディアだったことを示していよう。戦前の新刊案内や月報は、関東大震災後の書物への渇きを癒すように現れた円本に挟まれた宣伝形式だったし、戦後も長い間、情報に乏しかったことはいうまでもない。しかし今やあえぐのは情報過多。少数者の公共圏はすっかり輝きを失い、「図書」の公称部数も最盛期の半分以下、十五万部だという。

新潮社 新潮45
2016年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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