一階のロビーには、メン・イン・ブラックを思わせる、黒スーツにサングラスの男の人が居て、吉井さんと話していた。メン・イン・ブラックというのは有名な映画もあるけど、つまり宇宙人と遭遇した人たちの前に現れて、口どめしたり、妨害工作をしたりする、謎の組織の人たちのことだ。
二階のシングルルームで仙境を見てしまったから、記憶を消されるんだろうか。
レトロなホテルで、仙境の次は、メン・イン・ブラックか。まるでハリウッド映画ではないか。ここは、こっそり営まれている穴場のテーマパークとかなのか? そんなアホな。
チズが現実に追いつけずにうろたえている間、吉井さんは黒服の男にも、やっぱり文句をいっていた。新聞紙を手にもって、八つ折りにした紙面を、ぽんぽんたたいている。
「顔は見ていないのよ。わたしはコックだもの。お客さんの顔なんか、いちいち覚えていないわよ」
「どうしたんですか?」
チズは黒服の男に警戒の視線を投げつつ、吉井さんに訊いた。
吉井さんが答える前に、黒服の男がこちらを見たので、ビビる。
「こちらは、新しい客室係?」
黒服の男は、チズが引っ張っている掃除機を見ていった。
不愛想かつ、怪訝(けげん)そうな声だ。
それでなくてもサングラスで隠れた目に前髪がかかって、顔の表情が隠れている。でも、顔の輪郭とか、鼻やくちびるの形とか、背格好とか、細マッチョな感じとか、意外にイケメンだった。
どうせ記憶を消されたりするなら、不格好な人よりもイケメンの方がいいかなあとか思った。そんなチズを振り返って、吉井さんが「はて?」と首をかしげる。
「ごめんなさい。何さんだっけ?」
そういえば、まだ名乗っていなかった。
「ええと――。桜井千鶴です」
ええと、の後にいいそびれたのは、自分はここの客室係ではないということなのだが、吉井さんはそんなこと気にしていないようだった。
「チズちゃんか、可愛い名前だこと」
また、新聞をぽんぽんたたくので、チズもつい目がそちらに行った。
『亡くなったはずの祖母が、婚活パーティに乱入、殺人』
という見出しが目に入った。
奇妙なフレーズである。
そう思ったとき、突然、ひどい頭痛がチズを襲った。
ひたいの左側が、ネジでも絞められているみたいに、ズキンズキンと痛み出す。
「うう……」
急なことだったので、思わずよろめいた。目の前にチカチカと光が散って、ひどい動悸と吐き気が襲ってくる。インフルエンザに罹(かか)ったときよりも、水ぼうそうになったときよりも苦しかった。何だか知らないけど、このまま死んでしまうのではないかと思った。
吉井さんと、黒服の男がチズに寄り添うようにしてかがみこんだのが、気配でわかった。
「ちょっと、ちょっと、どうしたの? 大丈夫?」
「頭が、めちゃめちゃ痛いです。半端ないです」
チズはソファに倒れ込んだ。
頭痛だけではない、吐き気も超ド級だ。飲めないお酒を飲んだ翌朝の百倍苦しい。
吉井さんは掃除道具置き場に走って行って、バケツを持って来た。
黒服のイケメンは、両手でチズの頭をさぐっている。こんなときに記憶消去の措置をほどこすのか、あんたは鬼かと思ったが、どうやらちがった。
「キンコジだ!」
黒服イケメンは、意味不明のことを叫んだ。
「あんた、ここの泊り客か? ――じゃないっていったよな」
そうだよ。さっきは客室係かって訊いたじゃん。渦巻く苦痛の中で悶絶(もんぜつ)しかかる。
「泊り客でもないのに、どうしてキンコジをかぶっているんだ?」
黒服イケメンはさらにわからないことを大声でいった。その声が、苦痛を増幅させる。音が、光が、するどい刃(やいば)となって全身に突き立てられるかのようだ。
「吉井さん、キンコジのマスターキーを!」
キンコジ、と黒服イケメンは繰り返す。
チズには、まったくわからないものだった。黒服イケメンは切羽詰まった声を出しているから、よっぽど重要なものらしい。もしや、この頭痛の原因がキンコジなのか? それは病気の名前なのか? しかし、マスターキーで解除できる病気というのも、なさそうだけど。
フロントの奥のスタッフルームから出て来た吉井さんは、小さな鍵を掲げてチズのそばに駆け寄った。
「痛いですぅ、痛いですぅ」
息も絶え絶えにチズは泣いた。本当に涙が出てきたのだ。
「待っていろ。すぐに外してやる」
黒服イケメンは、そういった。キンコジとは、外すものなのか。納得したら、油断したのだろう。吐き気が土用波のように押し寄せる。
「うぷ」
「吐くな。吐くな」
黒服イケメンが慌てていって、チズのショートカットの頭を引っ掻き回した。その指先に、ぐっと力が入り、小さな金属音がした。
カ・シ……。
黒服イケメンは、チズの頭の中から出て来た金属の輪っかを持ち上げてから、目の前にかざした。
とたん、今にも地獄に引きずり込まれそうだった頭痛と吐き気と動悸が、消えた。汚れを洗い落としたかのように、すっかり消えたのである。
目を上げたチズが見たのは、黒服イケメンが持つ金属の輪っかだった。
それには見覚えがあった。シングルルームに宿泊の老婦人が、チズの頭に載せてくれたティアラだ。だが、載せたと同時に、なぜか消えてしまったのであるが。
黒服イケメンは、いらついた表情でチズを睨んでいた。チズがティアラを頭に載せていたわけを知りたいようだった。
「シングルルームにお泊りのおばあさんが、くれたんです」
チズがそういうと、黒服イケメンは何の言葉も返してくれず、さっと吉井さんの方を向いた。
「吉井さん、泊り客のリストを」
「お年寄りといったら、市村君江さんしか居ないけど」
吉井さんがフロントから持って来たのは、A罫(けい)の大学ノートにボールペンで手描きした宿帳だ。それを見て、黒服イケメンは自分のタブレット端末に老婦人の名前――市村君江さんのデータを入力した。
その様子をきょとんと見守っていたチズだが、黒服イケメンのタブレットには驚かされた。こうした機器には詳しくないのだが、そんなチズにも黒服イケメンの手にしたタブレットが、図抜けて先進的なことだけはわかった。なにしろ、ハンカチみたいな布状のものが、広げたとたんにパリンと固くなってタブレット端末になったのである。
(SF?)
目を丸くするチズにはおかまいなしに、黒服イケメンは深刻な顔でいった。
「このばあさん、先月、死んでるぞ」
「死んでる?」
幽霊ということか?
チズは仰天したけど、吉井さんは驚かなかった。難しい顔で「そうですか」とうなずいている。黒服イケメンも驚いているのではないようだ。
チズはおろおろと視線を泳がせ、床に落ちている新聞に目をとめた。
『亡くなったはずの祖母が、婚活パーティに乱入、殺人』
同時に頭に浮かんだのは、どうしてなのか頭痛のティアラをくれたお客さんの言葉だった。
――若い人たちの居るところに行かなくちゃならないの。うまく用事が済ませられるかしら。なんだか、心配なのよ。
婚活パーティ、すなわち、若い人たちの居るところ。
この一致は偶然なのだろうか。チズは、治まったはずの吐き気が、ぶり返すのを覚えた。
いや、これは吐き気とはちがう。胸の中がもやもやするのだ。胸騒ぎというものかもしれない。
「きみに、これを被せた相手の顔を見たよな?」
「はい。上品なおばあさんでした」
「きみが、はなぞのホテルのスタッフで助かったよ。支配人が留守だから、犯人の顔を知っているのは、きみだけだ」
ついて来て。
黒服イケメンは、チズを立ち上がらせると、腕をつかんで正面口へと向かった。ほとんど引きずられながら、チズはこみあげる疑問を口にする。
「犯人って? あのお客さんが犯人なんですか?」
婚活パーティに乱入して、殺人を犯した人、ということか?
しかし、その人は――。
「その人、死んでるって、どういうことですか?」
「ちょっと待って、五十嵐(いがらし)さん。その子は実は――」
吉井さんの言葉を聞かずに、五十嵐というらしい黒服イケメンは、チズをクルマの助手席にほうりこんだ。五十嵐さんは特殊な格闘技の心得でもあるのか、チズはぬいぐるみみたいに、ころんとシートの中に転がり込む。
シートベルトを締めながら、五十嵐さんはエンジンをかけた。
クルマは大通りに出て、西の方向に走り出す。
チズは助手席に居て、持って来た新聞を読んだ。
若者の集まった婚活パーティ会場に、刃物を持った高齢の女が乱入、カップルの男性一人に切りかかり、男性は死亡した。容疑者は、S市在住の市村君江(78)と名乗っている。
市村君江といったら、はなぞのホテルの宿泊客、チズにキンコジという頭痛のティアラをくれたあの老婦人ではないか。
記事はまだ続いている。
切りかかられた男性のパートナーは、市村容疑者の孫娘と判明。しかし、祖母の市村君江さんは先月、病死していることから、同姓同名を名乗る者が、なんらかの事情で身元をいつわっているとみて捜査を継続――。
さらに驚いたのは、新聞の日付だった。これは、明日の新聞なのである。
どういうことですか。
発作のように口から出そうになる問いを、チズは苦心して飲み込んだ。
まるで、謎のテーマパークにでも迷い込んだみたいではないか。
これ全てに「どういうことですか」と説明を求めていたら、陽が暮れてしまいそうだ。
そんなチズに、五十嵐さんがさらなる謎を押し付けて来た。透明なゴム製の耳栓――に見える。これから、やかましい所にでも行くのだろうか。しかし、耳栓なら片方の耳にだけ入れても仕方ないのでは?
「一応、これを耳に入れておいて」
「耳栓ですか?」
「マイクとレシーバー」
「はい?」
耳栓にしか見えないが、レシーバーなのか? マイクも付いているのか?
「あー、テステス。本日は晴天なり、本日は晴天なり」
「聞こえている。テストはいらないから」
五十嵐さんが迷惑そうにいうので、チズは「すみません」といって頭を下げる。自分の声が、耳の中からも聞こえた。
*
五十嵐さんのクルマは、『クロード』というフレンチレストランの駐車場に停まった。
郊外にある感じの良い店だった。洋館を改築したらしく、新緑を背景にクリーム色の外壁が落ち着いた中にも、さわやかな色彩で風景を引き立てている。
「降りて」
五十嵐さんが、まるで気の利(き)かない部下に苛立つような声でいった。
「あ――はい。すみません」
さっきから謝ってばっかりだ。
五十嵐さんは、そんなチズを待ってはくれない。
「いらっしゃいませ」
クロードのドアを開けると、ウェイターに感じ良く迎えられた。
壁面は無垢(むく)の木材で、天井は高く、梁(はり)がむき出しになっている。
吊り下げられた大きなシーリングファンが六機、ゆったりと回っていた。
テーブルも椅子も特注らしい木製で、食事時ではないのに、空席はあまりない。
窓側の一角に、渾身(こんしん)の勝負服の若い男女が、ほぼ同数向かい合っている。
婚活パーティだ、ということはすぐわかった。
そして、これが明日の新聞に書かれていた事件現場だというのも、何となく察せられた。
ええい!
チズは開き直った。
もはや、習うより慣れろ、だ。婚活パーティでの殺人の記事を見た後に急行したのなら、これがその場だと思ってしまって構うまい。その証拠に……そこまで考えて、チズは今度こそ本当にびっくりしてしまった。
チズたちの後ろを、小柄な老婦人が横切った。
きれいな白髪をパーマでふっくらとさせ、焦げ茶色のワンピースに、真珠のブローチを飾っている。チズに頭痛のティアラをよこした、市村君江さんだった。
「どうぞ、こちらに」
チズたちのことを、婚活パーティの参加者とまちがえたウェイターが、さっそうとした身のこなしで窓側の席に案内する。それより早く、君江さんが走った。おばあさんらしく、ちょこちょこと――。
「五十嵐さん、ほら、あのおばあさんです!」
「わかった」
答えるより早く、五十嵐さんは君江さんの後を追う。
「おばあちゃん?」
婚活パーティのテーブルで、淡いチェックのツーピースを着た女性が立ち上がった。
おばあちゃんと呼ぶからには、新聞にも出ていた孫娘か?
その人は、顔が引きつっていた。
無理もない。君江さんは、もう亡くなっている人なのだから。
(幽霊ってこと? 幽霊が犯人の殺人事件ってこと? ていうか、あたし、殺人現場に立ち会っちゃってるの? マズイよ、何とかならないの?)
チズの頭の中はめまぐるしく動くのだが、からだが緊張しすぎて少しも動かない。
君江さんが手提げかばんの中から取り出したのは、出刃包丁だった。
君江さんの孫と向かい合った男の人は、相手の様子がおかしいので、こちらを振り返った。その目が見たのは、自分に向けられた殺意と刃だ。
「あ……」
チズの口から出た悲鳴は、とっても短かった。
刺す。刺してしまう。だって、明日の新聞に書かれているんだから。
狙いをつけられた男の人が、悲鳴になる息を肺にためた瞬間のことである。
五十嵐さんが、まるでエスコートするみたいな自然さで、君江さんの右手を押さえ、包丁を取り上げた。
「国際時空管理機構です。時空法違反で逮捕します」
五十嵐さんが、小さな声でそういったのが、耳に入れたレシーバーから聞こえた。
(じくう……?)
わからないことが、また一つ増えてしまった。
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