宝石バチとの出会い――あるゴキブリの物語 『えげつない! 寄生生物』

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Case 02  宝石バチとの出会い――あるゴキブリの物語

「もう何日くらいこの薄暗い洞穴で過ごしただろう」
 アイツが昨日、出て行ったばかりの出口を見つめながら、そんなことを考えていた。
 あの出口を破れば、そこにはまた太陽が輝く野山があり、昔のように自由に走り回れるんだ。あの出口なんて、ただの土で埋めただけの簡単に壊れそうな出口じゃないか。
 なのに、どうしてだろう、そんな気にならない。
 ここ数日の記憶はなんとなく曖昧で断片的にしか思い出せない。僕はきっと大事なことを忘れてしまっているんだ。よく、思い出せ。
 最初にアイツに会ったのは、どこだったっけ。
 そうだ、近所の草原だ。その日、僕は一生懸命、何か食べられるものを探していたんだ。
 その時、ふと遠くからブーンという羽音が近付いてきて、ハチたちもこの近くで花の蜜でも探しているのかなと思った。次の瞬間、僕の胸のあたりにチクッという痛みが走った。
 僕はびっくりして、振り返った。そうしたら、キラキラとしたまるで宝石のエメラルドのようなハチが僕の胸のあたりを刺していた。僕は痛みと急な襲撃に猛烈に腹が立って、そいつをすぐに追い払おうとした。
 だって、そいつは僕の大きさの半分もない小柄な奴だったし、何よりこの僕は、この界隈ではすばしっこさではちょっと知られた存在だった。
 こんな小さい奴、すぐに追い払ってやる。
 さっそく、僕は素早く動く手足を使って、僕にのしかかってくるそいつに応戦した。だけど、そいつは顎で僕にかみついて離そうとしない。
 なんだよ、こいつ、尻から針を出している。
 僕を刺そうとしているんだ。
 絶対に負けてなるもんか。
 だけど、おかしい、前足に力が入らない。
 どんどん、足の感覚がなくなって力が抜けていく。
 そいつは動きが鈍くなった僕をここぞとばかりに押さえつけてきた。ほんの一瞬あの針が見えたかと思うと、頭のあたりがチクリとした。
 そのあと、僕は意識が朦朧として、目の前が真っ暗になったんだ。

Case 02  エメラルドゴキブリバチ 1

ゴキブリを奴隷化する宝石のようなハチ
その緻密かつ大胆な洗脳方法

 キラキラとしたハチに襲われたのは、ワモンゴキブリというゴキブリの一種です。日本に住む多くの方が一度や二度は自宅で目にしたことのある、あの虫です。

 ゴキブリの種類は全世界に約4000 種もあります。その数は1兆4853億匹ともいわれており、日本だけでも236億匹が生息するものと推定されています。ざっと計算すると、日本人1人につき、200匹のゴキブリがいるということですね。これを多いとするか、少ないとするかはさておき、ゴキブリはいろいろな意味で驚くべき昆虫です。

ゴキブリのすごい所4つ

 第一に、ゴキブリは相当な古参者です。約3億年前の古生代・石炭紀に地球に登場した最古の昆虫の1つ。大きさも形も当時とほぼ変わっていません。3億年前なんて、人類はおろか哺乳類さえ地球に存在していなかった時代です。そんな時代から絶滅もせず、生き残ってきた奇跡の昆虫とも言えます。むしろ、私たちはそんな何億年にもわたって生きてきた生物と共存できている現在に、感動しなければならないのかもしれません。

 第二に、ゴキブリは好き嫌いがなく何でも食べられます。昆虫の多くは、ある数種類の植物や昆虫しか食べられず、言わば好き嫌いが激しいのです。もちろん、実際は好き嫌いという嗜好の問題ではなく、他の種類の植物などを食べても栄養として吸収できない体なのです。しかし、ゴキブリは何でも食べる雑食性。人間の食べかすはもちろん、家の壁紙や本の紙、仲間の死骸やフンまで平気で食べて命をつなぎます。

 第三にゴキブリはとても繁殖力旺盛です。ゴキブリのメスは一度の交尾で何度も産卵でき、そのたびに“卵らん鞘しょう”と呼ばれる、複数個の卵が納められているカプセルを産み落としていきます。この1センチ強の卵鞘は、見た目は少し大きめの小豆のようです。そして、この卵鞘はとても硬い殻に覆われているので、殺虫剤が効きません。

 一般家庭でよく見られるクロゴキブリの卵鞘1個の中には卵が22~28個入っています。そして、メスの産卵回数は15~20回。つまり、1匹のメスがゴキブリの子どもを500匹ほど産むことができるのです。「家にゴキブリが1匹出たら、100匹はいると思え」とはよく聞かれることですが、正確には「家にメスのゴキブリが1匹出たら、500匹はいると思え」が正確かと思われます。

 第四にとにかく素早いこと 。ワモンゴキブリの場合、1秒間に約1・5メートル走ることができます。つまり1秒間に自分の体長の40~50倍の距離を進むことに相当します。このスピードですが、人間の大きさに換算すると1秒間に85メートルほどのスピードで、東海道新幹線よりも速いということになります。

 やはり、知れば知るほど卓越したその能力に敗北感を味わわされ、人はゴキブリを怖がり嫌うのかもしれません。しかし、そんな世界の嫌われ者のゴキブリを意のままに操り、奴隷のように自分に仕えさせるハチがいるのです。

ゴキブリを襲う美しいハチ

 ゴキブリに襲いかかるのは、エメラルドゴキブリバチという寄生バチです。このハチは名前の通り、宝石のエメラルドのようなハチです。メタリック光沢を持ち、脚の一部はオレンジ色ですが、それ以外の部分はエメラルド色に輝く美しい金属の調度品のようです。その美しさから、英語圏では「ジュエル・ワスプ (宝石バチ)」と呼ばれています。

 エメラルドゴキブリバチは主に南アジア、アフリカ、太平洋諸島などの熱帯地域に分布するジガバチ(セナガアナバチの一種)の仲間で、体長は2センチ程度です。残念ながら、日本には住んでいません。

 このハチの名前には「エメラルド」の他に「ゴキブリ」という言葉も入っています。お察しのように、このハチはその名の通り、ゴキブリだけを襲撃します。そして、その襲撃相手は、ワモンゴキブリやイエゴキブリなど自分よりも倍以上体の大きいゴキブリたちです。

 しかも、先ほども少し触れましたが、ゴキブリはその素早さを武器に、走り去ったり、飛んだりすることもできます。自分の体よりも何倍も大きく、素早いゴキブリを襲撃して、成功する確率はかなり低そうに見えます。しかし、このエメラルドゴキブリバチには秘策があります。

 では、その緻密かつ大胆な秘策を見ていきましょう。

逃げる気が失せるゴキブリ

 エメラルドゴキブリバチは、最初に逃げまどうゴキブリの上から覆いかぶさり、顎でかみついて身動きを取れないようにします。そして、すばやく針を刺します。針を刺す場所は、かなり厳密です。

 どんな場所に針を刺していたかについて、2003年に行われた研究で明らかになりました。この研究では、放射性同位体をトレーサーとして用いて、ハチの毒がゴキブリの体のどこに向かったかを追跡しました。すると、ハチの毒はゴキブリの胸部神経節に入っていることがわかったのです。しかも、その場所に毒を注入されることによって、ゴキブリは前肢が麻痺しました。

 この1回目の麻酔は、2回目の注入のための準備です。前肢が麻痺したゴキブリはほとんど動けなくなります。その間に、より正確な場所を狙ってゴキブリの脳へ毒を送り込みます。

 次の2回目の注入では、ゴキブリの逃避反射を制御する神経細胞を狙ってハチの毒が流入しています。つまり、1回目の注入で、ゴキブリを暴れないようにし、2回目の注入で「逃げる」という行動そのものを抑えていたのです。

 2回目の注入の効果について明らかにした2007年の論文があります。この論文では、エメラルドゴキブリバチの毒が神経伝達物質であるオクトパミンの受容体をブロックし、それによって「逃げる」という行動を抑制していたことが明らかとなっています。

 逃げる気を失ってしまったゴキブリは、この後どうなってしまうのでしょう。

「Case 03 洗脳された僕――あるゴキブリのその後」につづく
「Case 01 水中への憧れ――あるカマキリの物語」はこちら
「Case 11 受難――あるテントウムシの物語」はこちら

新潮社
2020年3月13日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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