統計数字が「事実」になる時代
日常とは強力なもので、脳ミソがなにを言っても気にもせず、平然と動く。だれでもそれはわかっているはずであろう。民主主義でも共産主義でも、食べなければ腹がすく。眠くなったら、寝なければならない。寝たら意識は消える。意識に振り回されると、その日常が茶飯事つまり些事になってしまう。意識的行為の方が偉い。意識はそう主張し、日常を支配しようとする。意識とは要するに財務省やGAFAの社長や株主のようなものである。時々はそれを考えた方がいいと思いますけどね。
それがなかなか実行できない理由の一つに、現代人の目線がある。統計数字が「事実」になってしまうことである。数字は明らかに抽象であって、「事実」ではない。コロナによる本日の死者何名。この目線はいわば神様目線である。「上から」目線と言ってもいい。死は二人称でしかない。その意味では現代人は生死すなわち実人生を上から目線で捉える。それは切実な実生活になりようがない。神様目線ではない目線はどこにあるか。文学の目線であろう。抽象が事実に変わった世界では、ロマンには力がない。コロナ禍の下で、いちばん売れたのが『ぺスト』(新潮文庫)だというのは、単なる偶然ではないと思う。それがまさに現代人のニーズを示している。
認識は世界を変える。同時に自分を変えてしまう。理解は向こうからやってくる。アッ、わかった、というのは、「向こうから」来る。マルクス・ガブリエルは思想は感覚ではないかという。向こうから来るという意味でなら、感覚である。それに対して、行動は限定される。1)ランダムに動くか、2)合目的的に動くか、のどちらかである。現代人は2)に捉われている。たまにランダムに動くが、それは動物でも同じである。部屋に飛び込んだスズメや虫をみればわかる。明るいほうに飛んでいきガラスにぶつかる。出られないから、やり直す。これを繰り返す。とりあえずやってみて、ダメならやり直す。人もその段階から、それほど進化していないのであろう。
コロナであとわかったことがあるか。生物兵器の有力さであろう。高いお金をかけて、ミサイルだの、衛星だのを作るより、コロナウィルスのように感染力が強いウィルスを使えば、社会が壊滅に近くなる。自分のところにも返ってくるが、前もってワクチンなり、特効薬なりを用意すればいい。原爆で将来にも使えない土地を作ってしまうより、よほど有利ではないか。
柄にもなく、安全保障や国家とは何かを、コロナのおかげで考えてしまった。国民が必要とする時に、必要なものを供給する。それが国家であろう。私が育った時代は「お国のために」は「死ぬ」ことの枕詞だった。生命を含めて、国家とはひたすら奪うものだったのである。たしかに戦中戦後も、国家は国民に必要なものを供給した。食料の配給である。「配給」とは懐かしい言葉ですね。若い世代は知らないと思う。団塊の世代がやっと記憶しているかどうかであろう。阪神大震災の一年後に、経済評論家の日下公人さんと対談したことがある。その時に日下さんが言われたことで記憶に残っていることがある。「あれだけの震災が起こって、労賃も資材も値上がりしなかった、日本経済は供給能力過剰ですよ」。当時は社会的な事象に私はあまり関心がなかったので、この言葉の重要性に気づかなかった。日下さんはまさに国家の力すなわち国力に言及していたことになる。
コロナの感染が生じて、国内でそれを処理する能力がない国は発展途上国である。医療水準が低いというが、人工呼吸器にしてもマスクの供給にしても、国内で供給が満たせないとすれば、国家は急場の役に立たない。中国はあっという間に武漢に病院を新設したが、そのためには建設能力と医療関係者の供給能力が必要であろう。ラオスの知人がこの間に病気になったが、治療のためにはタイに行くしかなかった。その意味ではラオスはまだ国家の体をなしていない。国家とは政治体制ではない。実質的には供給能力の総和である。安全保障の根幹は供給能力であろう。日本国の場合、最大の問題はエネルギーである。それは戦争中と変わらない。昭和天皇ではないが、あの戦争は「石油で始まり、石油で終わった」ので、その状況はいまだに変化していない。そのエネルギーがなぜ必要なのかというなら「意識という秩序活動」が要求するからである。
明治政府は富国強兵というスローガンを掲げた。強兵は敗戦で消えたが、富国は残った。軍事と経済は「ああすれば、こうなる」すなわち予測と統御の典型である。予測と統御は意識の特徴的な機能である。日本の「近代化」とは意識化、都市化であり、それには無秩序の排出が必要である。具体的にそれを担ったのがエネルギーであろう。石油を消費して、世界を統御する。世界には秩序が成立するが、同時に無秩序が排出される。それが地球温暖化を招く。まことに理屈に合っているというしかない。
養老孟司(ようろう・たけし)
1937(昭和12)年、鎌倉生れ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得た。1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。新潮新書『バカの壁』は大ヒットし2003年のベストセラー第1位、また新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。大の虫好きとして知られ、昆虫採集・標本作成を続けている。『唯脳論』『身体の文学史』『手入れという思想』『遺言。』『半分生きて、半分死んでいる』など著書多数。
養老孟司
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