第1話「自転車泥棒」を全文公開 乃南アサ『家裁調査官・庵原かのん』試し読み

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 一週間が飛ぶように過ぎていく。瞬く間に金曜日が来た。その日かのんは午前中から少年鑑別所に行って、暴行傷害容疑で逮捕された十八歳の少年と二度目の面接をし、続いて鑑別所の技官と話し合いの時間を持った。ベテラン技官は広くなった額を掻きながら「ダメですね、あいつは」と顔をしかめた。
「私の顔は当然、覚えておるんですが、最初のひと言が『まだおったんか』ですから」
 つまり、そう簡単に更生の兆しは見られそうにないということだ。これまでも繰り返し暴れては逮捕されている少年は鑑別所にも慣れてしまっている。
「余計な時間をかけてないで、早く少年院に送ればいいじゃないかと、少年本人から言われました」
 午後からは裁判官室を訪ねて午前中の面接について中間報告をした。かのんが何を話しても、自分の将来になどまるで希望を抱けないらしい少年は、うるさそうに顔をしかめてそっぽを向くばかりだった。こちらとしては、どこかに彼の気持ちを開かせる糸口があるのではないかと思っているのだが、それを見つけ出す手立てがない。
「家族は面会に行っているようですか?」
 谷本判事の質問に、かのんは「いいえ」と首を横に振った。生い立ちが複雑な上に、現在の家庭環境もかなり悲惨な状況の少年だ。そういう意味では気の毒な点がたくさんある。
「実母は相変わらず居場所が分からないままですし、実父も少年にはまったく関心がないようです。少年は『手紙も来ん』と笑っていました」
「笑っていましたか。どんな風に?」
「『どうせろくに読めんのやけ、どっちみち同じやけど』って」
 小学生の頃から不登校になったという少年は、文字の読み書きも満足に出来ない。最初の面接のときに、作文を書いて欲しいと提案したら、少年は「字なんか書けんちゃ」と拒否をした。知能指数をテストしたところでは境界領域と判断されている。つまり、明らかに知的障がいがあるというレベルではない。そういう少年にはまず、落ち着いて学べる環境が必要なのだと思う。今のままでは少年院送致は避けられそうにないが、それならそれで、少年院にいる間に読み書きを学んで、さらに新たな知識を得る楽しさを知ってほしい。暴力の裏にひそむ劣等感に打ち勝つためには、そこから始めるしかないからだ。
「調査官は、父親と会う予定はありますか」
「週明けに面接することになっていますし、別の日に家庭訪問も予定しています」
 谷本判事は満足げに頷いて、「そのまますすめて下さい」と締めくくった。噂によれば、呑むと人が変わったように賑やかになるという判事だが、仕事中は極めて口数も少なく、実直そうに見える人だ。
 その後は週明けに行われる「事例検討会議」に向けての準備をしなければならなかった。調査官がそれぞれ担当している少年事件について、アプローチの仕方や心理分析方法、処遇の見通しなどを互いに報告し、より適切と思われる方法を検討しあうものだ。これによって、調査官一人で事件を受け持つことで生じる偏りや不足点が解消されるし、ベテラン調査官から様々なことを学ぶ機会にもなる。かのんとしては今回は特に、さっき鑑別所で面接を行った少年について、他の人たちの意見を聞きたかった。
 少年と面接出来る回数は残り一、二回。その中でどういうアプローチをすれば、少しでも彼の心に変化の種をまくことが出来るか、さらに来週予定している父親との面接では、息子に無関心な親の気持ちを、どうすれば動かせるか、先輩方の経験と知恵を借りたかった。そのための資料を揃えたら、今週はおしまいだ。
「どうだい、一杯やっていかないか」
 帰り支度をしているときに、勝又主任が調査官たちに声をかけてきた。即座に「いいですね」と応じたのは若月くんだけだ。かのんも「今日はやめておきます」と控えめに会釈して鞄を肩にかけた。
「明日、早いんで」
 それだけ言って、地裁と同居している家裁の建物を後にする。学生時代の友だちでも近くにいれば、カラオケくらい行きたいところだが、北九州にそういう友人はいない。結局、官舎で一人の夕食をとりながら缶ビールを二本空けて、その晩は早めに布団に入った。
 翌朝は、車が雨水を跳ね飛ばして走り抜ける音で目が覚めた。手探りで枕もとに置いた眼鏡を探し、眼鏡をかけながらベランダに出てみると、ちょっと錆の浮いた手すりの向こうに、雨で煙る住宅街の景色が広がっている。驚くほど冷たい風と一緒に細かい雨粒が顔に当たった。
 せっかく楽しみにしてたのに。
 こんな天気では遠出は無理だ。部屋に戻って普段あまり使っていない方の和室を覗けば、綺麗に磨き上げたビアンキが、颯爽と走れる機会を心待ちにして、それこそ青空色の輝きを放って見える。だが、仕方がなかった。
〈おはよう。クチェカの様子は?〉
 パジャマだけでベランダに出たお蔭で、あっという間に身体が冷えた。遠出が出来ないのならと再び布団に潜り込んで、かのんは身体を温めながら栗林にLINEを送った。しばらくして、うとうとしかかった頃に〈相変わらず〉という返事が来た。
〈眠ろうとしても眠れないのかな、何か変な姿勢をとるし、やっぱり痛いのかも知れない。もう二、三日しても治らないようなら、CT検査だ〉
〈それ、めちゃめちゃ大変そう!〉
〈麻酔かけなきゃならないからね〉
 ゴリラという生き物は、あんなに大きくて立派な体格をしているのに、実は意外なほどデリケートで、ちょっとしたことでお腹をこわしたりするという。八歳のクチェカは中でも神経質なタイプらしく、栗林が勤める動物園で飼育されているニシゴリラの中でも一番の心配の種になっているらしい。
〈落ち着いたら連絡するよ。かのんも今朝は早いんだな〉
〈サイクリング行こうと思ったんだけど、雨だからやめた〉
〈そっちは雨か。じゃあ、のんびりすれば〉
〈そうする〉
 スマートフォンを布団の脇に置いて眼鏡を外し、毛布を顎のそばまで引き上げる。時間を気にせずに布団の中で過ごすことが出来るのも、思えば貴重な贅沢だ。今ごろゴリラを眺めながら気を揉んでいるに違いない栗林のことを考えると少し申し訳ない気もするが、こればかりは仕方がなかった。
 早く元気になるといいね、クチェカ。
 そのまま目を閉じて、静かに自分の呼吸を聞いているうち、眠りに落ちたらしい。気がついたときには、もう十時を回っていた。改めて外を眺めると、雨も上がっている。
 それならと、布団を畳みながら今日一日の過ごし方を組み立て始めた。今さら遠出する気にはなれないが、やっぱり自転車には乗りたい。それなら今日のところは近所を適当に走り回ることにしようと決めた。
 久しぶりにビアンキを外に出して街を走り始めたのは昼近くなってからだ。天気は徐々に回復してきて、薄くきらめくような陽が射し始めていた。日頃は黒のパンプスに地味なスーツや、せいぜい無地のニットなどで過ごしているから、明るい色彩のカジュアルな服装にスニーカーで動き回れるだけでも気が晴れる。雨上がりの空気は湿り気を含んだいい香りがしていて、風を切って走ると、すぐに身体が温まってきた。
 普段は通らない道を進み、目についた角を曲がってみる。特に目標など決めず、散歩でもするように走り回っていると、頭の中に少しずつ新しい地図が生まれていく感じがした。そうして見知らぬ住宅地を走っていくうち、ふと、歩道に真っ白いベンチを出している家が目にとまった。近づいていくと、普通の住宅の一階を改装して、テイクアウトの小さなサンドイッチ店になっている。ちょうど空腹を感じていたから、今日のランチはここで済ませようとひらめいた。
「ベンチで食べていってもいいですか?」
 手描きの看板が掲げられている小さな窓を開けて声をかけると、かのんと同世代くらいに見える女性が「どうぞどうぞ」と笑顔を向けてくれた。店の横に自転車を立てかけて、注文したサンドイッチと飲み物を受け取り、ベンチに腰掛ける。秋の陽射しがまぶしくて、いかにも清々しい日になった。一方通行の車道は道幅も広くなく、車どころか人も滅多に通らないようだ。
 サンドイッチは、バターがよくしみた食パンが軽くトーストしてあって、間に挟まっているシャキシャキとしたレタスやルッコラなどの歯ごたえとスクランブルエッグ、そしてハムの組合せが絶妙だった。陽射しを浴び、雲の流れる空を見上げながら、もぐ、もぐ、と無心でサンドイッチを頬張り、一緒に注文したハニーレモンを飲む。心が解き放たれていくのが実感できる。これは、いい店を見つけたと思った。スマホの地図に位置を記憶させておくことにする。
「美味しかった、また来ますね」
 最後にそう声をかけて、また自転車に跨がった。しばらく走ると、いつの間にか到津の森公園の方まで来ていた。ここは小倉の街の中心地からも近い上に、小高い山の連なりの中に動物園があって、市民の憩いの場になっている。かのんも何度か訪れているし、以前、栗林が来たときには彼を案内したこともあった。あのとき、彼はフクロテナガザルがすっかり気に入ってしまって、展示スペースの前から動かなくなった。かのんはずい分長い間、フクロテナガザルの独特の鳴き声をぼんやりと聞き続けたものだ。
 今日も、あのフクロテナガザルを見てみたい気がしたが、自転車では入ることが出来ないことを思い出した。駐輪場に預けて、可愛いビアンキが盗まれたりしては大変だ。あっさり諦めて、今度は近くを流れる川沿いの道を走ることにする。ほとんど歩行者専用のような細い道は、周囲の景色はさほどでもないものの、走るには快適だった。このまま下流まで行ったら海に出られるだろうかと期待したのに、頭上を線路が通る辺りで道がなくなった。地図アプリで確かめてみると、西小倉駅よりも、さらに西まで来ている。軽い散歩のつもりが、それなりに走ったようだ。その上さっきまで陽が射していたのに、いつの間にかまた灰色の雲が広がってきて、風も冷たくなってきている。
 そろそろ戻った方がいいかな。
 アプリで道を確かめながら、かのんはまたペダルを漕ぎ始めた。なるべく交通量の少ない裏道を選んだつもりが途中から広い通りに出てしまい、そのまま走っていくと、独特の屋根をしている松本清張記念館が見えてきた。ああ、この程度の距離なのかと、また頭の中の地図がつながる。ここまで来れば、もう分かる道だ。その先の市役所の横を通り抜けて、紫川を渡る。直進して魚町銀天街に差し掛かる辺りで、一旦、自転車から降りた。この辺りは車の交通量も多い上に、歩道にも人が多かったからだ。すぐ先の横断歩道で道の反対側に渡ろうと、自転車を押しながら歩調を緩めたときだった。いきなり左側の路地から男が飛び出してきた。バタバタという足音に続いて「あっ」という声がしたから、かのんは反射的に自転車のある方に身体を傾けた。同時に向こうもかのんに気がついたらしく、身体を反転させようとしたらしい。だが、間に合わなかった。かのんの左肩に、どん、という衝撃があった。男がよろけて歩道に転がる。かのんの方は、自転車で身体を支える格好になったからよかったものの、下手をすれば完全に自転車ごと倒れていた。
「痛ってえちゃっ、このっ!」
 自分からぶつかってきて自分で転んだ男が、派手な濁声をあげながらこちらを睨みつけてきた。垂れ気味の細い目に細い眉。ツーブロックの髪のてっぺんは金色で、ピアスをしている。どう見ても中学生だ。
「――そっちこそ」
 反射的に言い返すと、男は、というより少年は、さっと立ち上がって、さらに忌々しげに首を傾け、顎を突き出すようにしてかのんを睨みつけてくる。いくら子どもだと思っても、ちょっと怖い。咄嗟にどうしようかと思ったとき、男は自分が飛び出してきた路地を一瞥したかと思うと、慌てたように走り出した。そのまま人混みの中に紛れていくのを、呆気にとられたまま、かのんは眺めていた。
「ちょっと、お姉さん、大丈夫やった? ぶつかられたん? 怪我は?」
 知らないおばさんが慌てた様子で歩み寄ってきた。かのんの左肩には、確かに鈍い衝撃が残っている。腕を大きく前後に回してみてから「大丈夫です」と答えると、エプロン姿のおばさんは安心したように頷いた。
「以前はこの辺にも怖いお兄さんが結構、歩きまわっとったけ、ぶつかったとか目が合ったとか、色々あったもんやけどね」
「そうなんですか?」
「ああ、平和んなったんよ。やけど、ああいうのもおるけ、油断出来んもんやねえ。これで、もしも相手が年寄りやったら、骨の一本も簡単に折れとるよ」
 北九州の人は概して親切だ。知らない相手にでも、こうして気さくに声をかけてくれる。かのんが「本当ですよね」と苦笑している間に、おばさんは「気をつけんとね」と言い残して離れていった。目の前の歩行者用信号がちょうど青だ。かのんは小走りに自転車を押しながら、横断歩道を渡った。何とも言えず胸がざわついている。
 何だろう。これ。
 何とも妙な感じがしてならなかった。頭の中がめまぐるしく動き始めている。これまでの経験から、記憶の中にある似た匂いを探そうとしているのだ。だが、見つからない。こんな匂いは嗅いだことがなかった。
 何だろう。
 間違いなく、さっきぶつかった少年から匂ったものだ。横断歩道を渡りきって、再び自転車に跨がってからも、かのんは自分の肩先に残る匂いを懸命に記憶の中で転がし、そして、脳裡に焼きつけた。
 翌日も、肩にはまだ鈍い痛みが残っていた。痛みを感じる度に、あの匂いを思い出して、胸の中がざわめいた。それでも午前中は美容室で髪をカットしてもらい、帰りにスーパーマーケットに寄って、午後からは洗濯機を回しながら読んでおかなければならない本に目を通し、それからゆっくりと風呂に浸かった。
 夕方には、クチェカの体調が戻ってきたと栗林からLINEが入った。少しずつ食欲も出てきたという。ずっと見守ってきた栗林は、さすがに徹夜続きで疲れたらしい。今夜は早めにマンションに戻ると言ってきたから、時間を決めて夕食をとりながらオンラインでお喋りをすることにした。
「今度、俺がそっち行くときには、フグにしような」
 かのんはワイン、栗林は缶ビールについで湯飲み茶碗で焼酎のお湯割りを飲み始めている。疲れていると言う割に、帰宅してからポークジンジャーとツナポテトサラダを作ったのだそうで、風呂上がりのボサボサ頭で嬉しそうに箸を動かしている。かのんの方はトマトの輪切りにピーマン炒め、そして冷凍ハンバーグだ。
「そっちならフグ、安いもんな。刺身と白子も買ってさ、白子は網でじっくり焼いて、あとは鍋やろうよ。ぽん酢も作って」
「網なんか、ないよ。それに、ぽん酢まで作るの? 誰が?」
「そりゃ、俺でしょうねえ、やっぱり」
「でしょうねえ!」
 正直に言うと、料理に関しては絶対にかのんはかなわない。栗林は、魚も自分でさばけるし、細かい下ごしらえも面倒くさがらない。出汁も取ればパスタソースも作るといった具合で、しかも盛りつけにもセンスがあるのだ。いくら普段からゴリラの餌やりで包丁を使い慣れているといっても、これは生まれつきの才能としか言いようがない。
「いつ、フグが食べられるかな」
「しばらく休み取れてないからなあ。出来るだけ早く、行けるようにするよ」
「クチェカ次第だね」
「そうなんだよなあ。あの子、今夜はちゃんと食べたかなあ」
 結局、話はゴリラのことになる。そうして二時間ほども話した頃、栗林はタブレット端末の向こうで大きなあくびをし始めた。それが、そっくりそのまま、かのんにもうつった。

乃南アサ
1960年、東京生れ。早稲田大学中退後、広告代理店勤務などを経て1988年、『幸福な朝食』で日本推理サスペンス大賞優秀作を受賞し、作家活動に入る。1996年に『凍える牙』で直木三十五賞、2011年に『地のはてから』で中央公論文芸賞、2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。他に『鎖』『嗤う闇』『しゃぼん玉』『美麗島紀行』『六月の雪』『チーム・オベリベリ』など、著書多数。

乃南アサ

新潮社
2022年9月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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