沢木耕太郎の傑作ノンフィクション『天路の旅人』の序章・第一章を全文公開 第二次大戦末期、敵国の中国に「密偵」として潜入した西川一三を描く

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 二週間後、ミカン箱より少し大きめの段ボール二つに入った『秘境西域八年の潜行』の生原稿が届いた。
 それは思わず呻き声を出してしまいそうになるほど圧倒的なものだった。
 確かに、いくら筆者に処分してくれてかまわないと言われたとしても、なかなか廃棄する勇気が湧いてこなかったのも無理はない。
 まず、その量の凄まじさということがあった。私もかつて原稿用紙にペンで書いていた時期に、書き下ろしの長編の原稿を五百枚ほど束ねるという経験があったが、そのときは一束にして机の上でトントンと耳を揃えるということが可能だった。ところが、三千二百枚の『秘境西域八年の潜行』の生原稿は、白いボール紙で表紙をつけられ、二十三もの束に綴じられていた。平均すればひとつの束が百四十枚程度ということになるが、戦後間もない頃の原稿用紙に書かれているため、紙の質が悪く、一枚一枚がざら紙のように分厚い。それを二つ折りにして綴じているため、一束でも『広辞苑』並の厚さがあるのだ。
 圧倒されたのは、その量だけではなかった。原稿用紙は、紙質の悪さからか濃い茶色に変色し、書かれてからの長い時間の経過が示されていた。しかも、その原稿用紙は、各所で余ったものを貰ってきたものらしく、片隅に「経済安定本部」とか、「資源委員会事務局」という文字が印刷されているものが少なくなかった。
 だが、なにより驚かされたのは、その原稿に、芙蓉書房の編集者の手によると思われる、おびただしい量の朱筆が入れられていたことである。句読点や拗音(ようおん)や促音(そくおん)に指示の朱を入れるという通常の編集上の朱だけでなく、「やう」を「よう」に、「でせう」を「でしょう」にというような、旧仮名遣いを新仮名遣いにする朱や、旧字を新字にするというような朱が丹念に入れられている。そして、それ以上に眼を奪われたのは、文章をカットするための二重線や×印が無数に入れられていたことだった。
 ざっと見ただけでも、百カ所以上がカットされている。中公文庫版では大きくカットされたところを復元するという方針で編集したということだったが、細かいところではカットされたままのところが少なくないようだった。そして、そのカットされた部分に、わかりにくさを解消していくヒントが隠されていそうだった。

 その日以来、二千ページの文庫本と、三千二百枚の生原稿を突き合わせる作業が始まった。
 それによって、さまざまなことが新たにわかってきた。
 まず単純な誤植が明らかになった。
 たとえば、旅の最初のところで、西川と同行してくれる三人の蒙古人ラマ僧が登場してくる。その中のリーダー的な立場の中年のラマ僧は、出発する間際に、近くの漢人の集落から幼い男の子を「買い取り」、旅に連れていくことにする。確かに、当時の中国では、貧しい家の親が口減らしのために子供を売るということがよくあったらしい。だが、そのことについて触れた『秘境西域八年の潜行』の中に、弟として買った、という一文があり、なんとなく気に掛かっていた。男の子の年齢は九歳だという。中年の蒙古人が九歳の漢人を弟として買うとはどういうことなのだろうと。
 しかし、原稿で確かめると、そこには「弟」ではなく「弟子」という文字が記されていた。弟子ならわかる。妻帯の許されないラマ僧には、少年を弟子として育て、一人前のラマ僧に仕立てて、老後の自分の面倒を見てもらうという将来設計があるらしいからだ。
 もうひとつわかった単純なことは、原稿のかなりの部分が散逸しているということだった。
 なにより、冒頭の「はじめに」という章が丸ごと失われていた。
 原稿で調べると、次の「内蒙古篇」という章の最初の一枚の肩に「1」というノンブルが打たれているが、編集者の朱筆によって「21」と書き換えられている。つまり、冒頭の二十枚分が消えているということなのだ。
 それは、出版に際して、いきなり内蒙古のところから始めるのではなく、もう少し読者の興味を惹くようなイントロダクションがほしいという編集サイドの要求を容れ、西川が新たに書き加えた部分だと思われる。
 本来の原稿の束には入っていなかったため、時間の流れの中でどこかに消えてしまったということらしい。
 それ以外にも、失われている箇所がいくつもあった。
 芙蓉書房版では、二巻本にするため大幅にカットし、さらにその後に、カットした部分を集めてもう一冊を作るというアクロバティックな編集作業がされているため、その過程で散逸してしまった部分が少なくなかったらしいのだ。
 残念だが、それは諦めるより仕方がなかった。
 しかし、不完全であれ、生原稿が出てきたことで、大きく開けた問題があった。
 この『秘境西域八年の潜行』の微妙なわかりにくさのひとつにつながりの悪さがあったが、それは芙蓉書房版のときに細かくカットされたことによるものだということがわかったのだ。
 カットも、流れに直接関係のない情報や蘊蓄(うんちく)のような部分はいいのだが、単調な旅が繰り返されているようなところを無造作に縮めてしまっているため、地図を追って読んでいくと、どうしてここからここまで、こんなに少ない日数で移動できたのだろう、というようなところが出てきてしまっていたのだ。
 中公文庫版は、別巻として出された最後の一冊分を元の形に戻す努力は続けているが、芙蓉書房版で細かくカットされた部分はほとんど復元されていなかった。
 このカット部分を生原稿で参照することによって、疑問点のかなりの部分が明らかになってきたのだ。
 だが、『秘境西域八年の潜行』のわかりにくさのもうひとつの点として、微細すぎるため全体が見えにくくなっているということがあった。それは、旅のすべてが終わってしまった時点、すべてがわかってしまった地点から書かれているため、過程のドラマが見えてこないということによっていた。西川も、さまざまなことを徐々に知り、徐々に理解していったはずなのだ。それが描かれていないため旅の困難さが逆に希薄になってしまっている。
 しかし、中公文庫版の本文と生原稿の異同を確かめる作業をする中で、あらためて私が西川と交わした一年に及ぶ対話のテープの存在が大きな意味を持ちはじめた。
 その五十時間近いテープにおいて、私は旅の細部ではなく、そのときどのように思ったのか、どうしてそのような行動を取ったのか、といった心の動きを中心に訊ねていた。私は、すべてが終わり、すべてがわかったところからの視点ではなく、まだ何もわからず、何も経験していない、旅の初心者、新人のところから、徐々に経験し、徐々に理解し、徐々に逞しくなり、真の旅人になっていくプロセスが知りたかったのだ。
 私は、そのテープを、最初からあらためて聞き直してみた。
 そこには、当時の私が気がつかなかっただけで、実は西川の旅を深く理解するための鍵のような言葉がちりばめられていた。
 生原稿とテープの中の言葉。その二つを突き合わせることで、あの八年に及ぶ旅が立体的に見えてくるようになってきた。
 私は、そこから、ふたたび西川の長い旅を辿り返してみることにした。
 すると、『秘境西域八年の潜行』という鬱蒼とした森から、西川が辿った一本の細い路がくっきりと浮かび上がってきた。
 私は、その路を在るがままに叙することが、結局、西川一三という希有な旅人について述べる唯一の方法なのだと思い至ることになった……。

続きは書籍でお楽しみください

沢木耕太郎
1947年東京生れ。横浜国立大学卒業。ほどなくルポライターとして出発し、鮮烈な感性と斬新な文体で注目を集める。1979年『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、82年『一瞬の夏』で新田次郎文学賞を受賞。その後も『深夜特急』『檀』など今も読み継がれる名作を発表し、2006年『凍』で講談社ノンフィクション賞、13年『キャパの十字架』で司馬遼太郎賞を受賞する。長編小説『波の音が消えるまで』『春に散る』、国内旅エッセイ集『旅のつばくろ』『飛び立つ季節 旅のつばくろ』など著書多数。

新潮社
2023年1月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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