沢木耕太郎の傑作ノンフィクション『天路の旅人』の序章・第一章を全文公開 第二次大戦末期、敵国の中国に「密偵」として潜入した西川一三を描く

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 それ以来、西川もたまに私に対して質問してくることがあり、いくらか二人のあいだの距離も縮まったかのように思えたりもした。実際、二人が飲む酒の量も、三合ずつから四合ずつになり、二合徳利をコンスタントに二本ずつもらうまでになった。
 話し込み、遅くなり、店の人に、そろそろ閉めたいので先に会計をしてもらえないかと言われる夜が続いた。

 そのように定期的に会うことを重ね、二度目の冬を迎えた。
 内蒙古を出発し、チベットを経て、インドを放浪し、ついには逮捕されて、日本に送還される。その足掛け八年に及ぶ旅の一部始終を、二度繰り返して聞かせてもらった。
 だが、いくつかの箇所で意外な発見があったものの、本質的なところで『秘境西域八年の潜行』を超えるような挿話は出てこなかった。
 もしかしたら、『秘境西域八年の潜行』を書くことで、あの旅の内実が西川の内部から消えてしまったのかもしれない、と思えなくもなかった。
 それは自分自身を振り返ればとてもよく理解できることでもあった。私は二十六歳のときの長い旅を『深夜特急』というタイトルの紀行文にまとめていた。以後、さまざまな機会に、その旅について訊ねられることになったが、自分でももどかしく感じるほど大した話ができないでいた。『深夜特急』を書き上げるまでは生々しく私の内部に存在していたあのときの旅が、本としてまとめられることによって希薄になってしまったような気がしてならなかった。西川も、『秘境西域八年の潜行』を書き上げてしまったことで、あの旅が体内から抜け出て、本の中にしか存在しなくなってしまっていたのかもしれない。
 そうと理解はしても、私はやはりインタヴューを重ねることで『秘境西域八年の潜行』には含まれていない新鮮な話が出てくることを望んでいたのだと思う。
 だが、出てこなかった。
 西川一三という、この希有(けう)な人物のことを書いてみたい。しかし、そうは思うものの、『秘境西域八年の潜行』という確固たる著作がある中で、どのように書けばいいかわからないという戸惑いが頂点にまで達してきた。
 一カ月考え、私は西川の描き方がわかるようになるまで、しばらくインタヴューを中断させてもらうことにした。
 盛岡に行き、二晩、気ままな雑談をしたあとで、来月からはしばらく盛岡に来るのを中断し、あらためて参上させていただきたいと私が告げると、西川は、どうしてと理由を訊かないまま、いいですよと言い、まったくいつもと変わらない様子で帰っていった。

 以後、気になりながら、私が盛岡に足を向けることはなかった。
 すぐにオリンピックやサッカーのワールドカップの取材があったり、アマゾンの奥地への旅や中国大陸を縦断する旅があったりして、瞬く間に歳月が過ぎていった。とりわけ、アマゾンの旅では、乗ったセスナ機が墜落するという事故に遭い、命に別状はなかったものの、床に投げ出され、全身打撲で体を傷めてしまうということもあったりした。
 ただ、中国大陸を百日ほどかけて縦断する旅では、可能なかぎり西川が歩いたところに立ち寄るように努めるというようなことはしていた。
 すっかり忘れ去っていたわけではないのだ。
 それでも、態勢を立て直してふたたび参上しますと盛岡訪問を中断してから十年余が過ぎてしまった。
 インタヴューを再開するタイミングがどうしても見つからなかった。タイミングというより、西川を描く、その書き方が発見できなかったのだ。
 しかし……。

 それは二〇〇八年(平成二十年)の冬の終わりのことだった。
 私は、二月の末に東南アジアからの比較的長い旅から帰ってきて、郵便物の整理をしていた。手紙類に眼を通したあと、寄贈された書籍と定期的に送られてくる雑誌類の整理に入った。
 封筒から月刊誌を取り出し、次に週刊誌を取り出した。
 一冊一冊、月刊誌や週刊誌のページをパラパラとめくり、気になった記事を読んでいるとき、「週刊新潮」の「墓碑銘」というページで手が止まった。
《中国西域に特命潜行 西川一三さんの不撓不屈(ふとうふくつ)》
 そのタイトルを見て、私は声こそ出さなかったものの、内心「あっ!」と叫んでいた。
 ──西川一三が死んでしまった……。
 記事にはこうあった。
《平成15年、85歳で副鼻腔癌になるまで仕事を続けた。昨年12月、心不全と肺炎で入院し、2月7日、89歳で逝去》
 私は心の片隅で西川をどのように書いたらいいのかと気にかけてはいたが、死ぬなどということはまったく考えていなかった。
 もちろん、私が会っていた当時すでに八十近かったのだから、十年が過ぎれば九十近くになる。いつ死んでも不思議はなかったのかもしれない。しかし、年齢は八十近くても、毎月会っていた西川は、老人というより、背筋の通った壮年の風格があった。颯爽(さっそう)としていた。だから、西川と死を結びつけるなどということをまったくしたことがなかったのだ。
 だが、死んでしまったという。
 これで西川について書くことはできなくなった。
 諦めよう、と私は思った。
 しかし、書かせていただくつもりだと伝えておきながら途中で勝手に中断し、また参上しますと言っていた約束を反故(ほご)にしてしまったという申し訳なさが残った。
 せめて墓前に線香でもそなえさせてもらおうか。しかし、死から一カ月近く過ぎてはいるけれど、遺族は何かと忙しいだろう。落ち着いた頃を見計らって連絡を取ってみることにしよう、と思った。
 とはいえ、ここまで遅くなっている以上、別に急ぐ必要はなかった。考えた末、中途半端なところで伺うより、来年の一周忌の前後に伺う方がいいのではないか。そう思うようになった私は、翌年の二月の末、一周忌の法事が終わっただろうと思われるタイミングで西川宅に電話をすることにした。
 そしてその二月がやって来た。お線香を上げるだけのために、わざわざ東京から出向くということになると大袈裟すぎるし、相手の心理的な負担も大きい。ついでに寄らせていただくというのがいいだろうと思えた。
 その頃、ちょうど取材のため秋田に行く用事があったので、すべてが終わった翌日に盛岡に寄り、線香を上げさせてもらって帰ることにした。
 電話をすると、夫人と思われる女性が、どうぞいらしてくださいと言ってくれた。
 ところが、秋田で取材を済ませると、その夜半から大雪になり、翌日は秋田新幹線をはじめ在来線も不通になってしまった。どのようにしても盛岡には行けそうもない。
 夫人に電話で事情を説明し、後日、あらためて伺わせていただきたいと告げた。
 頃合いを見て、半月後に電話をすると、今度は、夫人に、体調が悪くなってしまったのでまたの機会にしてほしいと言われてしまった。
 三カ月後、電話をすると、まだ具合がよくならないという。さらにその三カ月後にもう一度電話をしたが、返事は同じだった。
 私は自分の連絡先を告げ、よくなられたら連絡をいただけないかとお願いをした。
 だが、この時点で、縁がなかったのだろうと諦めることにした。西川一三との細い縁は切れたと思うことにしたのだ。
 そして、やはり、夫人からの電話はなかった。

 それからまた何年もの歳月が過ぎた。
 ある日、私はスポーツ・ノンフィクションの新しい短編集のラインナップを検討していた。すでに書いてある短編をどう編集し、どのようなタイトルをつけるか。
 対象となっているアスリートは、ボクサーのモハメッド・アリ、ジョージ・フォアマン、マイク・タイソン。スプリンターのボブ・ヘイズ、ジム・ハインズ、ベン・ジョンソン。クライマーのラインホルト・メスナー……などである。
 これらの短編の並べ方をあれこれ考えているうちに、ふと『超人たち』というタイトルが浮かんできた。
 悪くない。だが、そこに日本人がひとりも入っていないことが気になった。クライマーとしては山野井泰史(やまのい・やすし)は「超人」の名にふさわしい。しかし、彼は、すでに『凍』という作品で描いてしまっている。
 そのとき、西川一三のことが頭に浮かんだ。クライマーでもアスリートでもないが、超人というなら、西川こそふさわしい。旅の過程で、実に七回もヒマラヤの峠を越えているのだ。これまで、長編で書くということしか考えてこなかったが、この短編集に収めるつもりなら短編でもいいことになる。そして、もし短編なら、『秘境西域八年の潜行』から離れ、自由に西川を描くことができるかもしれない。
 たとえば……。
 そうだ、あの西川は、一年のあいだ、まったくひとことも家族について話さなかった。
 そのとき、電話でしか言葉をかわしたことのない、西川の夫人のことが気になりはじめた。
 彼女は、なぜ西川と結婚したのか。彼女にとって、西川とはどんな人物だったのか。
 妻の眼から見た夫という存在は、『火宅の人』を遺した作家の檀一雄について、『檀』という作品で書いたことがある。それと同じ手法で書くつもりはなかったが、あの西川を、妻がどう見ていたかについては知りたかった。もしかしたら、それを突破口にして、西川についての短編を書くことができるかもしれない……。
 私はもう一度だけ電話をしてみることにした。

 電話を掛けると、夫人ではなく、もう少し若い声の女性が出て応対してくれた。西川の娘だということだった。
 私が名前を告げると、線香を上げるために訪問したいとの申し出を受けていることを母から聞いて知っているという。
 そこで、私は、線香を上げるだけでなく、夫人に西川について話をしてもらえないかと思っていると付け加えた。
 だが、娘によれば、母は乳癌の闘病中に大腿骨を骨折し、入院中であるという。お会いするのは無理だろうとも言う。そこにはもう先があまり長くないのでというニュアンスが含まれているように思えた。
 万事休す。もう少し早く気がつき、もう少し早く夫人に連絡をすればよかった。ついに、ついに、西川を書くということを完全に諦めるべきときがきたらしい。
 ところが、その数日後、西川の娘から電話が掛かってきた。
 母に話をしたところ、自分はもういつ死ぬかわからない。西川のことを訊きたいという方がいるのなら、妻として話しておくべきだろうと思う。病院でいいなら、いらしてくれれば話をしましょう、と言っている。どうしますか、というのだ。
 私は、すぐにでも伺いたいと応じた。
 そして、その二日後に盛岡に向かったのだ。

沢木耕太郎
1947年東京生れ。横浜国立大学卒業。ほどなくルポライターとして出発し、鮮烈な感性と斬新な文体で注目を集める。1979年『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、82年『一瞬の夏』で新田次郎文学賞を受賞。その後も『深夜特急』『檀』など今も読み継がれる名作を発表し、2006年『凍』で講談社ノンフィクション賞、13年『キャパの十字架』で司馬遼太郎賞を受賞する。長編小説『波の音が消えるまで』『春に散る』、国内旅エッセイ集『旅のつばくろ』『飛び立つ季節 旅のつばくろ』など著書多数。

新潮社
2023年1月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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