教授室で持参の弁当を食べている最中に、報知新聞の記者から電話がかかった。本日の地下鉄サリン事件に関して、コメントをいただきたいと言う。こういう電話でのインタヴューはおざなりになりがちなので、あまり気は進まない。しかし今回は別だった。相手はどうやら松本サリン事件の前に書いた例の論文を読んでいる様子だった。手短に述べると、相手は復唱して、これでよろしいですねと念を押した。本来なら、原稿そのものをファックスしてもらえるといいのだが、相手にその気はないようだった。
電話を終えて、ふうっと溜息(ためいき)をつき、急いで弁当をたいらげる。その直後だった。今度はRKB毎日放送ラジオ制作部のディレクターから電話がはいった。電話インタヴューの可否についてだった。質問の内容はすぐにファックスすると言う。その場で諾の返事をした。
番組名は「朝イチ!タックル」で、明朝八時半からの放送らしい。質問内容は、すぐにファックスで届いた。
(1)今回の地下鉄での事件について、どう分析されていますか。
(2)異臭がしたということですが、サリンは無色無臭だとされていますが。
(3)サリンとはそもそもどういう物質ですか? あらためて教えて下さい。
(4)どの程度の知識があれば作れるものなのですか。
(5)防御策はあるのでしょうか。
当然の疑問であり、ファックスの末尾には「急なお願いで申し訳ありません。明日八時二十分頃電話します」と書き添えられていた。
こうした迅速な報道はテレビでは不可能で、ラジオならではの強みだった。
夕方、旧知の警視庁鑑識課の今(こん)警部補からファックスがはいった。短文で、地下鉄ではアセトニトリルも検出されているが、これはどう考えたらいいかという質問だった。アセトニトリルは、さまざまな物質を溶かし、体内への侵入性が強いので、サリンを混ぜたのか、サリン製造の過程で溶媒として使われたのかもしれない。あるいはそのものが撒かれた可能性もある。その旨をファックスで返信した。
夜のテレビニュースでは、この事件の特集が組まれていた。結局のところ、霞ケ関に向かう地下鉄の三路線、丸ノ内線、千代田線、日比谷線を走る五本の電車に乗っていた乗客が被災していた。救助にあたった地下鉄駅員や救急隊員、警察官なども被害にあっていた。死者は六人、被害者は三千人を超えるという。治療にあたった医療機関も八十を超えていた。
犠牲者が六人である事実からは、サリンの純度が低かったのではないかと推測される。その総量はどの程度だったのか。五つの電車に乗り込んだ犯人が所持していた量は、一キログラムではきかないだろう。二キログラムはあったのかもしれない。
犯人たちは不純物の多いサリンをビニール袋に入れ、何らかの方法で穴を開けたあと、下車して逃走したようだった。
まさしくこれは未曾有(みぞう)の大事件だった。今後も同じ事件が繰り返される可能性は充分にある。やはり目的は、国家と国民に対するテロ行為だろうか。さまざまな想念が去来して、その日の夜はなかなか眠りにはいれなかった。
翌三月二十一日の朝は、重い頭をかかえて地下鉄に乗り、五種の新聞を買った。どの乗客も新聞を開いて見入っていた。
西日本新聞では「無差別殺人」「東京の大動脈、恐怖走る」「あふれる患者、薬足りず空輸」「だれが、なぜ」「計画非情、高度な知識」「プロ、組織的犯行か」「国の中枢標的か」「見えない犯人像」「死傷者拡大3200人超す」「容器6個を発見」「松本との関連捜査」などの文字が数頁にわたって躍っている。
読売新聞には、「サリン残留物、松本・山梨と一致」「3線5電車に置く」「無差別殺人、怒り募る」「犯人は四人以上」「働き盛り無念の死」「ナゾ深まるサリンテロ」の文字が各頁に見え、入院患者の氏名も掲載している。社説では「狂信的な犯行を断じて許すな」の見出しで、犯行を非難していた。
毎日新聞では「有毒ガス、サリンと断定」「組織的犯行か、不審物6ヵ所に」「中年の男が置いた包みからサリン、女性が目撃」「解毒薬確保に苦心する病院」、朝日の紙面では「警視庁1万1000人を動員」「派遣要請で自衛隊160人」「関連事件9ヵ月で3件目、原料入手で共通点捜査」などの文字が眼にはいる。
日本経済新聞も「約30分、3線で次々」と書き前述の四紙同様の見出しを掲げていた。
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