北村薫×宮部みゆき 対談「そこに光を当てるために」―作家生活30周年記念・秘蔵原稿公開

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北村薫×宮部みゆき 対談「そこに光を当てるために」―作家生活30周年記念・秘蔵原稿公開

松本清張生誕100年を記念して行われた北村薫さんと宮部みゆきさんの対談。松本清張自作の「創作ノート」をはじめ、清張自身の言葉と作品から、偉大なる「推理作家」松本清張の秘めた想いに二人が迫ります。

 ***

「創作ノート」のからくり

北村 この対談のために私が宮部さんにお送りした『推理小説作法』(江戸川乱歩、松本清張共編・光文社文庫)、お読みになりましたか?

宮部 もちろんです! この本のことを知らなかったのは不覚でした。

北村 ふふふ。私は大学時代から元版で読んでいましたからね。伊達に年をとっているわけではないんですよ。この本には松本清張先生の「私の創作ノート」が掲載されているわけですが、これがどういう経緯で最初に世に出ることになったと思いますか。そして、なぜ、

〈「宝石」連載中の『零の焦点』のためのメモ。これでネタがわれたら困る。〉

 という清張先生の注釈で終わっているのでしょうか。その答えは、まさに江戸川乱歩責任編集の雑誌「宝石」の昭和三十四年新年特大号に隠されているんです。

宮部 私、産まれる前だ(笑)。

北村 この頃、同誌では清張先生がまさに『零の焦点』(雑誌掲載時・のち『ゼロの焦点』と改題)を連載しているはずなのですが、この号には原稿は掲載されず、代わりに「創作ノート」と「お詑びの弁」(下)が寄稿されているのです。想像するに編集長である江戸川乱歩先生に休載を責められ、原稿のかわりにこの二つを執筆しなければならなくなったのではないでしょうか。そして、「創作ノート」だけが単行本にも収録されたと。

—-

お詑びの弁

「零の焦点」が難航をつづけ、毎回少いので読者から叱られている。今月も休載するのは身を縮めるような思いだが、再度の金沢の現地行が不能になつたので、書くことが出来ず、やむを得ず休ませてもらつた。読者に対して、申訳なく、冷汗を流している。

「創作ノート」など出して、そのかわりにもならないが、厚顔を覚悟でのせてもらつた。私は、未熟で、こんなものを発表するガラではないが、多少の興味にもと無理に考えて提出した。責をふさぐ意味では決してない。「零の焦点」は必ず来月号からつづける覚悟だが、今はひたすら恐縮している。

(松本清張)

—-

宮部 ひゃあ、そういう流れがあったとは……。清張さん、苦しかったでしょうね。あ、今回は親しみを込めて〈清張さん〉とお呼びしますね。

北村 乱歩先生は編集後記で「創作の種あかしともいうべき秘録である」と書いていますよ。休載のおかげで私たちは貴重な創作の裏側を知ることができるわけです。

宮部 〈ネタがわれたら困る〉という注釈がある理由もわかりました。それはそうですよね、連載中なんですから(笑)。

北村 他にも徒然の、日記のような記述もあります。

〈午前中、佐藤春夫を訪う。昨秋、九州旅行の印象など語る。

「自分の文学は、山にたとえれば阿蘇のごときものだ。富士、浅間のように単一にととのった山でなく、平原あり外輪山ある複雑な山容は、難解だという佐藤文学に似ている。」〉

 この「阿蘇のごとき山」というのは、清張先生自身のことを非常によく表現していますよね。森村誠一先生も、『過ぎゆく日暦』(新潮文庫)でこの部分を紹介して、「清張氏自身の文学について語っているものであろう」と書いています。

宮部 なるほど、ご自身の作家像まで、「創作ノート」には触れられていたんですね。

小説に潜む父性

宮部 〈複雑な山容〉と表現されているとおり、実に様々な作品を発表してきた清張さんですが、その中でも代表作と言われているのが、『点と線』と『砂の器』(共に新潮文庫)ですよね。私は『砂の器』が読売新聞に連載された一九六〇年の生まれなんです。ただそれだけなのですが、何か感慨深いものがあります。

北村 では、最初に読んだ清張先生の作品は『砂の器』ですか?

宮部 いえいえ(笑)。『砂の器』は作家デビューしてからですね。読み始めたのは『点と線』、「張込み」(新潮文庫『張込み』収録)あたりの短編からだと思います。北村さんが一番最初に読んだ作品は?

北村 私は『点と線』です。貸本屋で借りて読んだのですが、ミステリー好き中学生だった私の心は動かされなかったんです。福岡市の香椎海岸で、汚職事件の渦中にある某省課長補佐と愛人の死体が発見され心中と断定されそうになるが、ベテラン刑事が疑問を抱いて――という筋ですが、ここにいわゆる「東京駅の四分間」というのが出て来る。この使い方に、無理がある。また、ネタバレになりますが、犯人は移動手段に、ある乗り物を使っていたわけですが、そこにプロの刑事が気がつかないのは、当時の時代背景を考えてもおかしすぎます。それから共犯が何人もいるアリバイ物というのは、合鍵のある密室も同然ですよね。推理小説としてはいかがなものかと。もちろん全体の水準は非常に高いんですけどね。おかげで『点と線』を読んだ後しばらく、松本清張作品から足が遠のいてしまいました。

宮部 それは驚きです!

北村 もちろんその後、清張先生の数々の素晴らしい小説に感銘し今日に至っているわけです。だからこそ松本清張と言えば、すぐ『点と線』や『砂の器』といわれるのは、本格ミステリーという観点からは、どうかなと。

宮部 そういう見方はあるかもしれません。けど、私は『砂の器』は新聞小説の傑作だと思います。

北村 蒲田駅の操車場で発見された扼殺死体の謎を今西という捜査一課の刑事が追う長編推理小説ですが、多くの人が、犯人はピアノをひくと思っている。映画のイメージが強いんですね。映画と原作は、かなり違う。それから作中の出来事に偶然が多すぎませんか。

宮部 確かに偶然が多いですね。事件関係者が、それと判る以前に今西刑事と遭遇してたとか、近所に住んでたとか。蒲田操車場殺人事件の証拠品を処分した〈紙吹雪の女〉についても、そんな目立つやり方をしたから、雑誌でエッセイのネタにされちゃって、そのエッセイが、たまたま捜査陣の目にとまる。でもね、連載当時、新聞で少しずつ読み進んでいた読者には、この判りやすさと、華やかな演出が、とても嬉しかったろうと思うんです。翌日の配達が待ち遠しかっただろうなあって。

北村 なるほど。

宮部 あと、私は清張作品を読んでいると、食事の場面がとても気になるんです。たとえば、犯人が婚約者の女性とその父親と共に、椿山荘と思しき非常に高級な料亭で夕食をとる場面や、聞き込みに行った先で、今西刑事がお手伝いさんと二人でワンタンを食べるシーンなど、麗々しく書いているわけではないのに美味しそうなんですよね。ミステリーの骨格を成す部分ではないけれども、状況ひとつひとつが絵になっていて、時代の風俗を映している。こういう生活感が漂うところにこそ、清張作品の本領があるような気がしてしまうんです。

北村 それこそ、松本清張の力量です。

宮部 あと、ラストシーンは清張作品の中でも五本の指に入る名場面だと思います。犯人を追いつめてようやく逮捕する時の今西刑事の描写は実にすばらしい! 「表情も変わらないが、目だけが潤んでいた」という一行で、簡潔なのですけれどもね。

北村 小説を読むことは、文章という名で氷山の一角として世に出ている部分から、その下に何が隠されているかを考えるということでもありますからね。

宮部 トリックに使われている「カメダ」という地名や方言、そこにも隠されているものがあるんですよ。

北村 東北弁に似た訛が他の土地にもないか、言語学の本ででも調べたのかと思っていましたが、違うんですね。

宮部 実は、『砂の器』より前の一九五五年に発表された「父系の指」(新潮文庫『或る「小倉日記」伝』収録)という短編にも登場しているんです。伯耆の山村で裕福な地主の長男として生まれた父の人生を辿る話で、数少ない私小説の一つと言われる作品ですが、〈この奥の出雲の者らしく、東北弁のような乱である〉という文章があるんです。この方言を、「否定しきれない父」が大きなテーマの『砂の器』でも使うとは、単なるトリックではなく、血が通っているように感じるんです。

北村 私も、それを読んだ時に、へえーと思いました。父という存在が清張先生にとってどれほど大きいかを証明するアイテムですね。

宮部 この四月から新潮社で刊行が始まる『松本清張傑作選』というアンソロジーの編者に加えていただいているのですが、この「父系の指」をはじめ、父親との関係が深く描かれている作品が多く、ヤマッ気があって、ちょっと羽振りがよくなってもすぐもとに戻ってしまうという父、が、パターンを変えて何度も登場するんです。でも、主人公は父を憎んだり、突き放したりせず、むしろ憧憬や懐かしさを抱いています。時に哀れみ、時に父を通して自らの人生に不安を見つけてしまうというスタンスで描かれています。また終生故郷を訪ねることが叶わなかった父の代わりに、自分が故郷を訪ねるという作品も多いです。一般的に、男性作家は母性を特別に描くこと、が多いように思うのですが、父性を追求するのは、珍しいですよね。

新潮社 小説新潮
2009年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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