『百年の散歩』
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ベルリンの重層性の中で気ままに壁をくぐり抜ける
[レビュアー] 都甲幸治(翻訳家・早稲田大学教授)
まずタイトルに惹かれる。散歩はわかる。「わたし」はベルリンの様々な通りを歩くのだから。では百年は。今から百年前、一九一七年と言えばロシア革命の年だ。確かにソビエト連邦は消え去ったが、資本主義の問題は加速するばかりだ。だから目の前の現実とは別のあり方を、僕らは夢見ることをやめられない。
この探求のために多和田葉子が選んだ方法はこれだ。当たり前のことの中に違和感を見いだすこと。そうやって少しずつ、固い現実のあり方を揉みほぐしていくこと。そのために彼女は音と意味を切り離す。そして各言語間の壁を薄くしてしまう。だから喫茶店は「奇異茶店」になり、スカートは「米寿色」で、「須磨フォン」や「藍フォン」が登場し、flat rateは「ふらっと霊と」なる。同じ音を持つ複数の言葉を散歩するうちに、ここには存在しないことになっているものを見る目が開いていく。
それを促すのはベルリンの歴史だ。街の半分はもともと東側だった。だからカール・マルクス通りもマヤコフスキーリングもある。時代を遡れば、カント通りもマルティン・ルター通りもあるのだ。街にいまだ残る社会主義の雰囲気に導かれるように、過去の霊たちは自らの名前を持つ場所に降りてきて、それぞれの想いを「わたし」に語りかける。現実や、言語や、人生の困難や愛情がいくつも重なる。この重層性に向かって開かれていく感覚を、多和田は文学と呼ぶのだろう。
それでは人に「グロバリバリ働」くことを強要する現代社会はどういうものか。単一の意味を持つ記号的な英語しか許容せず、お金だけを愛し、なにより人を急がせる。ならば気ままな散歩こそが現代の革命運動となるだろう。一つの意味に還元できない言葉を語りながら、お金で買えない時間を慈しみ、ゆっくりと生きる。ものを買うときは相手の仕事への愛を込める。ものごとにじっくりと向き合う多和田の散歩哲学は軽くて深い。