現代韓国文学随一のストーリーテラーが紡ぐ生活の鎮魂歌――チョン・イヒョン 著『優しい暴力の時代』(都甲幸治 評)

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優しい暴力の時代

『優しい暴力の時代』

著者
チョン・イヒョン [著]/斎藤真理子 [訳]
出版社
河出書房新社
ISBN
9784309208046
発売日
2020/08/26
価格
2,420円(税込)

亀とぬいぐるみ

[レビュアー] 都甲幸治(翻訳家・早稲田大学教授)

 突然フェイスブック経由で、知らない人から連絡が来る。ようやく彼女が誰か分かったのは、彼女のページの写真を見たときだった。死んだ父親の元愛人だ。

 そこから、主人公と彼女との奇妙な友人関係が始まる。仲立ちとなるのは、主人公が可愛がっているぬいぐるみの猫、シャクシャクと、ミス・チョの飼っている亀、〈岩〉だ。数ヶ月に一度のペースで会うようになった彼らは、ミス・チョと父と主人公という、かつて短い間だけ続いた「家庭」を振り返る。

 老人施設で働く主人公は入居者たちから見下され、怒鳴られる。「まずは深く頭を垂れた。申し訳ありませんという言葉が口癖になっているから、このぐらいは何ともない」。だがもちろん、心は確実に削られる。

 そしてミス・チョもまた、幸せにはなれなかった。主人公の父親にいくら尽くしても、正式な妻にはなれない。それでも彼女はもちまえの優しさを周囲に振りまく。「ミス・チョは親切な人だった。父さんとすれ違っていった女性全部をひっくるめて、僕にいちばん優しかったといえる」。

 どうして親切は報われないのか。なぜ正しく生きても、社会で踏みつけにされ、果てしない孤独に追い込まれるのか。だが、チョン・イヒョンの円熟した筆はこうした残酷さを声高に告発はしない。

 逆に彼女は、主人公が再び得た、数少ない安らぎの時を描写する。癌で亡くなったミス・チョから彼は〈岩〉を譲り受ける。亀とぬいぐるみの背中を交互に撫でながら、世界からすっぽりと切り離された時間の中に自分がいることに気づく。

 もちろん愛も家庭も、時代と場所に応じて、理想の形は存在するだろう。だが大事なのは中身だ。主人公とミス・チョの間には確かに愛があるし、そこに亀とぬいぐるみを加えた四人家族が成立していてもいい。短編「ミス・チョと亀と僕」はそんなふうに思わせてくれる。

 こうした寂しさを抱えているのは短編「ずうっと、夏」のワタナベ・リエも同じだ。日本人である父の仕事の都合で引っ越した南国のインターナショナル・スクールで、彼女は英語が不自由なメイと出会う。無口だったはずの彼女は、ふとしたきっかけからリエと韓国語で話し出す。そこにはいつもと違う、生き生きとした彼女がいた。

 リエの韓国人の母親は娘を都合のいい話相手、かつ通訳として使う。だがメイとの関係の中で、リエは母親が作った枠を徐々にはみ出していく。あるちょっとした事件をきっかけに、メイとリエは大人たちに引き離される。だがメイがくれた自由と愛情の感覚は、リエの中で生き続けるだろう。

 かつて長編『マイ スウィート ソウル』で編集者して働く女性をポップに描いたチョン・イヒョンだが、本書で彼女は、人々の心の暗い部分にしっかりと降りていく。そして読者はいつしか、登場人物たちと一緒に自分の心も揺れていると気づく。生きることの哀しみと喜びに満ちた作品をまずは楽しんでほしい。

河出書房新社 文藝
2020年冬季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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