なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【後篇】

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社会にとって趣味とは何か

『社会にとって趣味とは何か』

著者
北田 暁大 [著]/解体研 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
社会科学/社会
ISBN
9784309625034
発売日
2017/03/28
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【後篇】

4◇ブルデュー理論の批判的継承

北田■はい。まずひとつは彼のフォロワーの継承の仕方。いまひとつには、彼自身の理論構成の問題です。ブルデュー自身は精緻化されたテイストの差異化・卓越化論を、いまお話したように、ある種の社会科学的手続きに則って展開していました。しかし、わたしが長らく教員をやっていて、どうにも気になったのが、少なくとも『ディスタンクシオン』では概念導出の手続きが描かれていた文化資本、経済資本、象徴闘争、掛け金といった概念が、日本や英米のカルチュラル・スタディーズ的フィールド研究において、説明概念として――つまり分析対象を説明するための理論的な枠組みとして――使用されることが多く、はたして差異化・卓越化の論理を適用すべきか否か判断しかねるような対象にまで拡大適用されていたということです。テレビやマンガ、アニメ、音楽、グラフィティからアートまで、おおよそ趣味と呼ばれうるようなものであれば、「界、文化資本、象徴闘争、掛け金」のワンセットで、数人にインタビューをして論文が出来上がってしまう。しかしそれはいくらなんでも無理があるんではないか、と。

――それは計量的ではないから、ということですか。

北田■違います。ブルデュー自身も計量的な分析を前面に出しているものはさして多くはなく、さまざまな界における象徴闘争を、自ら作り上げた理論枠組みで、さまざまな手法で分析しています。計量的か否かは問題ではありません。そうではなくて、どうもインタビューであらかじめ「界、文化資本、象徴闘争、掛け金」を想定したうえで、それを確認するために、つまり見たいものを見るためだけにフィールドにいく、というタイプが日本のみならず、英米圏でも少なからずみられるようになり、それはまずブルデュー理論の適切な援用であるかが疑問でしたし、また分析対象の趣味自体が本当に「卓越化の論理」を内包しているのか、が問われていないようにも思え、「論文生産セット」としてブルデューの概念が独り歩きしてしまうのは、ブルデューに対しても、そしてまた分析対象たる趣味に対しても誠実な姿勢とはいえないように思えたのです。それは、フィールドワークという修練と方法の体得を必要とする方法に対しても誠実ではないように思えました。

たやすくブルデューを「使う」というのは、理論・方法・対象のいずれにおいても、問題含みであるように感じていたのです。それは、記号論をフィールドワークに移しただけの消費社会論の焼き直しです。国内外、大学内外で見ることの多い「ファン研究」のパタン化された姿を見続けるのは、ちょっとしんどい。しんどいけれど、それをどう考えたらいいのかが自分自身よくわからない。そんなところで工藤さんの問題意識と接点を持ち、解体研のメンバーとの議論のなかから、ホビーとしての趣味が可能にする社会的な場の性格、テイストの持つ意味が、ホビーごとに異なるのではないか、だとすれば、それをこそ分析のテーマにすべきではないのか、という問題設定が浮かび上がってきました。この本を貫く根本的なテーマはそれです。あまりに「過剰差異化された人間像」はブルデュー自身も否定している。その差異化する人間像とは異なる形で、趣味が可能にする社会性を問題にしていきたかったのです。

――ホビーとしての趣味ごとに趣味の持つ意味が違っていて、したがってテイストが果たす機能も異なるのではないか、ということですね。それはわかるのですが、そうしたわりと「地味」な問題設定が現代の文化社会学に対してどのような意味を持つのかが、少しわかりにくいのですが……。

北田■私が主として分析を担当したのは「音楽鑑賞」と「アニメ」「マンガ」でした。この二つの趣味は「趣味」とはいってもだいぶ異なる社会性によって実践されている、そういう直観は前からあったのですが、このとき大きなヒントをくれたのが、東浩紀さんと毛利嘉孝さんの論争でした。東さんは脱社会的で趣味外の他者との差異化に強いこだわりをもたない「オタク」たちの生活様式が、全世界的に広がっていることをもって現代的な文化グローバリゼーションを捉えているのに対して、毛利さんはおそらくはテクノやエレクトロなどのクラブミュージック的なものを想定しつつ、世界的なサウンドデモ――身体的な他者との連帯――やオキュパイのような「ストリート」的な趣味世界に、グローバルな社会的連帯の可能性を求めているようでした。ちょうどドイツに滞在しているときに、どちらの世界にも触れる機会に恵まれたので、少し考えていたのですが、これは全然異なるものどうしを「アニメ/音楽」「オタク/ストリート」という文化的趣味にかかわる事柄ということで、比較対照してしまっているから、話が完全に行き違っているんじゃないか、と。文化的実践ということで両者は比較可能であるように思えますが、「音楽におけるテイスト」のもつ機能と「アニメにおけるテイスト」のもつ機能とではまるで違うのではないか。その違うものを対照させても「猫とお椀でどっちが高いか」みたいなカテゴリーミステイクが起こっているんじゃないか、と。

そこで、色々と統計的な方法を用いて、まず東さんがいうようなデータベース消費と呼ぶような受容様式――そこではテイストや歴史的教養の卓越化はなされない――は確認されうるか、それに対峙される音楽鑑賞という趣味はどのようなテイストとの関連性を持つのか、という分析を行いました。その結果、アニメという「界」は、参入障壁は高いが教養主義的卓越化のゲームが機能しにくく、ある意味で「動物化」した場といえる、それに対して音楽は若者たちの全体社会におけるテイストの分布を反映したような「特異に一般的」な趣味であり、ホビーとしての参入障壁は低い(十分に一般的)が、一方で卓越化のゲームがなされうるようなコミットメントの濃淡の差異、掛け金にあたるような受容姿勢が確認できた。東さんと毛利さんの論争は、差異化が重要な契機とはならない「アニメ界」と、テイストが文化資本として機能する「音楽界」の上層部を比較しているわけで、論争に結論が得られるはずもないわけです。そのように、いろんな手法を試しながら、「アニメ界」と「音楽界」の社会的場としての相違をトレースしていきました。こうした作業をしてはじめて、自らが分析の対象とする趣味が、「界、文化資本、象徴闘争、掛け金」というセットで分析しうるものなのか、それともデータベース消費のような枠組みで分析すべきものなのか、があきらかになってきます。

そうした調子で、本書では、「界、文化資本、象徴闘争、掛け金」という理論道具を前提にして、自分の好きな趣味を分析するというスタイルではなくて、そもそも対象としている趣味が可能にしている場の性格をあきらかにしなくてはならない――そうした文化社会学的な問題提起を行っています。

――アニメ界というか、オタク界の趣味内差異についても分析されてますね。男性オタクと腐女子の相違といいますか……。

北田■はい、8章のテーマはそれです。同じように「オタク的趣味」を持つ人びとのなかでも(でこそ?)、ジェンダーギャップは実に大きいものでした。ジェンダー規範に関する分析変数で対応分析をする――若者のジェンダー規範空間といえるでしょうか――と、オタク男性と腐女子との距離は他のカテゴリーのそれよりもきわめて大きい。これも直観的には、あるいは表現論・内容分析的には論じられてきているテーマですが、本書ではわりと直球の計量社会学的な手法で分析しています。どう違うか、それはなぜなのか……この点は本をご覧ください。

Web河出
2017年4月26日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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