〈言葉では語れぬものを語る〉音楽を言葉で語った超絶技巧の小説
[レビュアー] 豊崎由美(書評家・ライター)
熊本の小出版社・伽鹿舎から出た瀟洒なデザインの一冊『世界のすべての朝は』は、一九九二年、映画の公開に合わせて『めぐり逢う朝』という邦題で刊行された作品の改訳復刊。実在の人物でありながら、生没年すら明らかになっていない伝説的なヴィオル奏者サント・コロンブを主人公にした小説だ。
物語は一六五〇年、サント・コロンブの妻がこの世を去るエピソードから始まる。パリから馬車で二時間かかる土地で、愛する妻を失った悲しみから自宅にひきこもり、娘のマドレーヌとトワネット、二人の従僕と賄い婦、わずかな友人としか接触せず、音楽に没頭するサント・コロンブ。しかし、〈若い女のため息から、老いた男の嗚咽にいたるまで、(略)ときに快楽がもたらす乱れた喘ぎ声から、祈りに集中している男のほとんど聞き取れない重々しさまで、ほんのわずかな数の、しかもごく単純な和音で再現してみせたという〉演奏の評判はパリにまで伝わり、ルイ十四世から宮廷に来るよう乞われるほど。ところが、自分の音楽が誰のために、何のためにあるのかを深く理解しているサント・コロンブは、王のために馳せ参じたりはしない。そんなある日、十七歳のマラン・マレが弟子にしてほしいと門をたたく。
マレとの対話、破門と和解の物語を通して、作者のパスカル・キニャールはサント・コロンブの演奏の極意を、口べたな主人公に寄り添うかのように最小限の言葉で明らかにしていく。妻の亡霊と語らい、彼女のために心をこめてヴィオルを弾くサント・コロンブの、音楽に捧げる魂のありかに光を当てていく。音楽にまつわる著作が多いキニャールは、楽譜に記された黒と白の記号が、歌われることで奏でられることでたえなる調べと化すように、音を文章にしていくのだ。
〈音楽はまず、言葉では語れぬものを語るためにある〉ことを、言葉で語った超絶技巧の小説。この復刊を機に手に取ってみて下さい。