『とり残されて』
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宮部みゆきのこの短篇がスゴイ! その5――作家生活30周年記念・特別編
[レビュアー] 佐藤誠一郎(編集者)
今年、作家の宮部みゆきさんが、作家生活30周年を迎えられます。この記念すべきメモリアルイヤーに、宮部みゆきさんの単行本未収録エッセイやインタビュー、対談などを、年間を通じて掲載していきます。今回は特別編として新潮社で宮部みゆきさんを担当して25年の編集者で、新潮講座の人気講師でもある佐藤誠一郎が数ある名短編の中から選りすぐりの作品を紹介します。
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私が一番好きな短編に、もう一作、追加させて下さい。好みであるということの他に「最も不思議な作品」でもあるんです。
タイトルは「たった一人」。文春文庫の短編集『とり残されて』の巻末に収められた作品です。因みにこの短編集は表題作「とり残されて」も素晴らしく、「たった一人」と双璧をなしています。
ある探偵事務所をヒロインの利恵子が訪れるところから物語の幕が開くのですが、その依頼内容がふるっている。彼女が繰り返し見る夢に、ある特定の場所が出てくるんだけれど、それがどこなのかを探して欲しいというのです。どこかの交差点だという確信ならある。幼いころにそこに行ったという記憶があり、周囲の情景も覚えている。しかも夢の中で利恵子は、その交差点に立つと「すごく急かされているような、すごく大事な約束を抱えているような」気分になるというのです。その焦燥感をどうしても消すことができなくてここを訪れたのだと、彼女は切々と探偵に訴えるのです。
私はもうこの時点でノックアウトされました。これほど「予感」に満ちた冒頭は読んだことがない、そう思ったのです。「ちょっと頭のおかしい人の話?」などといった感触は全く抱きませんでした。雲をつかむような依頼内容に対応す探偵の描写も含めて、私はいとも容易く宮部マジックの世界に誘引されてしまいました。
利恵子はよく気を失ったりして病院通いもするのですが、だからといって小説シーンとしてぼんやりしてイメージを結びにくかったりすることは一切ないんです。そしてページをめくるごとに読者は深みにはまってゆくことになります。
これ以上は口にチャックをしなければなりません。テーマに触れずには済まされないからですが、なんだ、冒頭だけ紹介して逃げるのかと言われそうなので、文庫解説で北上次郎さんも引用している一行を紹介して今回の締めくくりとします。
「運命を変えてはいけないなんて、戯言だ。それじゃ生きる価値もない」