晴れやかな日よ――『松本・梓川殺人事件』著者新刊エッセイ 梓林太郎

エッセイ

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松本・梓川殺人事件

『松本・梓川殺人事件』

著者
梓林太郎 [著]
出版社
光文社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784334077372
発売日
2018/02/14
価格
990円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

晴れやかな日よ

[レビュアー] 梓林太郎

 今回、松本を書くにあたってあらためて市内をめぐったが、きれいな街であるのを再認識した。もう昔といっていいだろう。私はこの街の一角で二年間を送ったので、懐かしいはずだが、極端に貧しかったせいか、薄暗い記憶だけが濃く残っている。

 大学に入ったとき、入学金と半年分の下宿代を父は払ってくれた。だがその後の仕送りは一切なかった。父は私に、「甘えるな」という思いがあったらしいが、私は小遣いどころか日々の暮らしに苦しんだ。後にこのことを人に話したら、「アルバイトをすればよかったのに」といわれた。アルバイトの口があるのは都会のことだ。当時の松本でのアルバイトといったら、徹夜の土木工事か、山から丸太を里に出す数日の山仕事ぐらいなもの。家庭教師がなくはないが、それは市内の選ばれた家庭へ選ばれた学生のみが招かれるもので、薄汚れた凡百の学生のところにはまわってこない。

 入学半年後から私は、下宿を追い出される夢に怯えつづけた。

 同じ下宿にいる学生の郷里は遠かったが、彼らには郷里の産物がしょっちゅう送られてきていた。私からは彼らに返す物はひとつもなかった。

 親からまったく仕送りのない私を気にかけた下宿の主人が、父宛てに、「いかに苦学生といえども、まったく現金を持っていないと暮らしていけない」という意味の手紙を送ってくれた。だが父からは、仕送りどころか手紙に対しての返事さえこなかった。

 朝食の席。下宿の主人は学生たちに向かって訓示をたれる日があった。「林君(私の本名)。下宿代を払っていないからといって卑下するんじゃないぞ。胸を張って飯を食え。やがて払えるときがきたら、返してくれればいい」私の喉には飯が通らなかった。

光文社 小説宝石
2018年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

光文社

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