「有能さ」と知識の量は無関係。ビジネスパーソンが、モンテーニュの「名言」から学べること

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生きるのが〝ふっと″楽になる13のことば

『生きるのが〝ふっと″楽になる13のことば』

著者
名越康文 [著]
出版社
朝日新聞出版
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784023316829
発売日
2018/02/20
価格
1,512円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

「有能さ」と知識の量は無関係。ビジネスパーソンが、モンテーニュの「名言」から学べること

[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)

人間は矛盾した存在であり、誰しも「まるで一貫しない自分」を実感しながら生きているもの。ひとりの人間として現在進行形で生きる僕たちは、生きながら耐えず悩み、迷い、でも、なにか漠然とした目的に向けていつも試行錯誤している。

そう記しているのは、『生きるのが “ふっ” と 楽になる13の言葉』(名越康文著、朝日新聞出版)の著者。ご存知のとおり、これまでにも数多くの著作を送り出してきた精神科医です。新刊である本書が特徴的なのは、「矛盾を矛盾でないかのように思わせてくれるもの」として「名言」に焦点を当てている点。

本書では、古今東西の作家、思想家、哲学者、学者や政治家——偉人と呼ばれる天才たちが遺した13の言葉を取り上げていますが、どれもこれも一癖も二癖もある名言ばかりです。(中略)その中には、残酷なまでの矛盾をそのまま突きつけてくるようなものもある。だけど、あまりに言葉が美しいので、われわれはすっと、ごっくり飲みこんでしまう。苦い粉薬をカプセルに包んで飲み下してしまう。 そういう言葉が、「名言」と呼ばれるものだと思います。 特に、長い時の洗礼を受けた古典を開けば、人間や世界の本質をズバリと言い表した珠玉の名言たちが永久保存されています。(「はじめにーー試行錯誤を助けてくれる言葉」 より)

著者は本書において、フリーズドライのように凝縮されたそれらの言葉を、ビジネスシーンやプライベートな人間関係でカジュアルに使えるように「湯戻し」し、その過程を書きとめたのだそうです。

その結果、名言の含有成分(たくさんの教訓)が豊富に圧縮されていることに改めて驚かされたのだとか。きょうはそのなかから、第8章「『有能さ』の磨き方 周りに感謝されながら働くには?」に焦点を当ててみましょう。

「有能さ」に知識の量は関係がない

知識のある人は すべてについて知識があるとは限らない。 だが、有能な人は、 すべてについて有能である。 無知にかけてさえも有能である。 (114ページより)

これは16世紀フランスの哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』からの一節。ちなみに本作は随筆、つまり現在「エッセイ」と呼ばれている、自分の考えや身近なできごとを散文調で書くスタイル、文学ジャンルの先駆となった名著。そして『エセー』という著作自体が、いろいろな名言、警句の宝庫になっているのだといいます。

まず注目すべきは、「知識のある人はすべてについて知識があるとは限らない」という部分です。これは“そのまま”の真理であり、まったく当たり前のこと。たとえば「あの人はなんでもよく知っている」といっても、ほとんどの場合は、その人が話題の主導権を握り、自分の知っていることをしゃべっているにすぎないというわけです。

もちろん、誰もが驚嘆するほど知識量の多い人もいるでしょうが、そんな人でもやはり「すべてにおいて知識があるとは限らない」もの。いいかえれば、その点において、だまされてはいけないということです。

いわば「知識」とは相対的なものであり、場所や条件、お題やジャンル、話す人が置かれている立場などによって簡単に価値変動するものだということ。

たとえば、ある集まりの場で、あるテーマについてしゃべっているとき、自分があまりに無知で恥ずかしい思いをしたとします。しかしそんなときも、必要以上にショックを受ける必要はないというのです。

なぜなら人は、それぞれ「違うこと」を知っているだけだから。「このカラクリは覚えておいたほうがいい」と著者は記しています。

「有能」とは、たとえばひとつの話題を振られたときに、「その話題をどう広げるか」ということに関わってくるもの。それは、「知識」の量とは基本的に関係がないわけです。(115ページより)

有能さに磨きをかける話の聞き方

著者は30代前半のころ、尊敬する師匠である宗教学者の植島啓司氏のもとで「飲み修行」をし、多くのことを学んだのだそうです。

そういう日々を送っている時、ある小さなバーのカウンターで、「名越さん、こういうバーで誰かと会話をするときに、僕はひとつ肝に命じていることがあるんだ」と植島先生が話しだしたんです。「それはね、相手の話の腰を折らず、その話を広げてあげることなんですよ。どんな話でも」って。 その時ね、僕、この言葉は一生覚えておこうと思った。(117ページより)

この話を聞いて以来、著者の方向性は変わったのだといいます。

ピンとこない話をされたときも、「えっ、それってどういうこと?」とか「えっ、もうちょっと教えて」など、相手が話す気になってくれる返し方をしてみる。途中で相手の話の腰は折らない。できるだけ話が広がっていくような質問をする。

それを意識して2年くらい自主的に修行してみた結果、やがて意識しなくても自然にできるようになってきたというのです。

あと、もうひとつ、植島先生からの助言で大切にしていることがあります。 それは「人に話をする時、何かひとつ具体的な例を挙げなさい」という教え。確か植島先生は「エピソード」という言い方をされていました。具体的なエピソードをひとつ入れると、その話がグッと引き立つ。相手が呑みこみやすくなる。わかりやすくなる。(119ページより)

そのころの著者はあたまでっかちで、なんでも理屈だけで話をする傾向があったのだそうです。でも、それでは堅苦しくなりますし、なにより相手の空想を掻き立てません。空想力が発揮されないということは、相手の心が積極的に動いていないということ。そのため、思ったほど相手に伝わらないわけです。

ところが助言のとおり、「あるときに僕はこんな経験をしたんです」「こんな人に会ったんです」と具体的なエピソードを話に入れ込んでみると、よく伝わるようになったというのです。

簡単なことで、自分や誰かの経験談、話のテーマにまつわるストーリーを例に出すと、非常に話の浸透度が高くなるということ。相手が最後まで興味を持って、自分の話をしっかり聞いてくれるわけです。

このふたつの教えを自分なりに習得した結果、それだけでだいぶコミュニケーションが高角度に展開できるようになってきて、いろいろな人と話ができるようになった気がするのだそうです。

そして、飲み修行のなかで教わったことは「知識」ではなかったとも書き添えています。若かった著者に少しでも「有能」のかけらだけでも身につけさせようという、ありがたい助言だったということ。(117ページより)

無知な状況においても有能な人とは?

先のモンテーニュの言葉に戻りましょう。「有能な人は、すべてについて有能である。無知にかけてさえも有能である」――特にこの「無知にかけてさえも有能である」という部分は、すごく示唆的。著者はこれを、「自分が無知である事柄でも、話を立ち上げてくることができる」と解釈したのだといいます。

ポイントは、「自分は無知だから教えてください」というところから、どれだけ場の話を豊かにできるかということ。たとえば堅苦しい議論の場で、「僕、不勉強で、すいません。どういうことでしょうか?」と素直に言ってしまったら、おそらく鼻で笑われるでしょう。

しかし、「こういうことですよ」という答えに対し、「あ、そうなんですか。では、この場合はこういうことですか?」と、また正直に無知をさらけ出して質問してみたとしましょう。そのとき、場の緊張を和らげるような人としてのかわいげがあったりすると、事情が変わってくるというのです。

かわいげというのは、えくぼや下がった眉のことを言っているのではなくて、そこでツボを心得た素直な質問ができるかどうかが重要です。すると、相手の関わり方も「お、こいつの質問いいな」「意外にちゃんとした経験値を積んだヤツだな」と変わってきます。知りたいという素直さを認められて、相手によしもっと教えてやろうという気持ちを起こさせたり、そこから結果的に場全体の集中力まで高めてしまうことさえ、実際にあると思います。 それができる人って、「無知」な状況においても「有能」ですよね。(121ページより)

ちょっとした言動からにじみ出る人間性、かわいげ、素直さ、そして、相手の話にハッとして、興味を持てるということ。それらすべてが「有能」ということの一端である。モンテーニュはそう主張している気がするのだと、著者はいいます。(120ページより)

人間についてまわる矛盾の受け皿として、名言を活用しようという発想がまず新鮮。しかも柔らかく読みやすい文体なので、著者のメッセージを無理なく受け止めることができるはず。いろいろなことをつらく感じている人も、本書を読んでみれば楽な気持ちになれることでしょう。

Photo: 印南敦史

メディアジーン lifehacker
2018年4月26日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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