『風に吹かれて』
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著者エッセイ・夏の秘密――樋口明雄『風に吹かれて』刊行記念
[レビュアー] 樋口明雄(作家)
少年時代のことを想うとき、なぜかいつも複雑な感情に心が揺れる。
たんにときめきや懐かしさだけではなく、記憶の奥底のどこかに埋れていた不安や畏れが、深い水底の闇から浮き上がってくるように、心の表層に忽然と姿を現すからだ。どんな不安があって、何が怖かったのか。その答えを、真っ暗な記憶の部屋の奥から闇雲にたぐり寄せるように探し当て、漠然とながらもようやく理解できたのは、つい最近のことだった。
作家にとって、古き良き昔の出来事を語るのはたやすいが、あらためて小説として書いてみれば、あの頃から今に至る長い時間の流れの中に、まるでパズルのように、いくつかの暗喩が隠されていたことに気づく。一見、無関係に思えていたそれらが、実はどこかで互いに巧妙に作用しながら、見えない運命の歯車を動かしていたことを知って、ハッとさせられるのだ。
過去を懐かしんで振り返ることは現実逃避かもしれない。しかしそれは物語をつむぐ作家にとって、一度は渡らねばならぬ橋のようなものではなかろうか。
子供の時代、青年時代、そして現代、時間の流れのそこここにとどまっていた想い出の断片が、こうして振り返れば連鎖的によみがえってくる。それらはこの先も消えることなく、記憶の折々の場所に刻まれて、まるで道標のように立ち残っているに違いない。
二〇一一年三月十二日、午後三時三十六分。福島第一原発一号機の建屋で爆発が起こった。
翌々日、十四日の午前十一時一分。今度は三号機が爆発した。
オレンジの爆炎が一瞬、瞬き、次の刹那、まるで神の巨大な拳が突き上げられるように、灰色の煙の塊が高空に向かって噴き上がっていった。それが上空に伸び上がる寸前、舞い上げられた大量の破片が、突如、幾筋もの煙の滝となって落ちていった。
その映像を観ているうちに、まだ若かった頃の母が、遠く、東の山の向こうに目撃したという禍々しい広島のキノコ雲の話を思い出した。
広島と長崎に落とされた二発の原子爆弾によって、日本という国の歴史が変わったように、福島第一原発から二度にわたって噴き上がったあの爆雲は、ありとあらゆる価値観を変えた。
どれだけあの事故から視線を背けても、歴史を修正することはできない。原発事故が起こったという事実を重く抱えたこの国で、われわれは自分の子らとともに未来を生きてゆかねばならない。
そのことを考えているとき、それまで自分がたどってきた人生の記憶にいくつか刻まれた暗喩の意味にあらためて気づいたのである。
一九七三年の夏―私はまだ十三歳、中学二年の、ガリガリに痩せた少年だった。
多くの友がいた。淡い恋があり、ちっぽけな冒険も経験した。
あのときの懐かしい記憶は、青空に膨れあがるように立ち昇る大きな純白の入道雲のイメージに彩られている。
自宅の勉強部屋の窓外に見えた空、学校のグラウンドから見上げた広い空、海パンに水中眼鏡で飽きることなく魚を追い、息継ぎのために水面に顔を出したとき、ふと目の前に広がっていたコバルトブルーの天空にも、びっくりするほど大きな入道雲があった。
その光景に重なるように、耳鳴りのようなセミの声が絶え間なく聞こえていた。
あの夏のたしかな記憶の中に、どんな人生の秘密があったのか。
その答えは風の中にある。
過去から吹き寄せてくる、懐かしい風の中に――。