「人間は一生癒されない」そう断言するセラピスト・吉福伸逸とは何者か?
[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
きょうは、『静かなあたまと開かれたこころ 吉福伸逸アンソロジー』(吉福伸逸 著、サンガ)をご紹介したいと思います。
といっても、著者のことをご存じない方もいらっしゃるかもしれません。そこで、まずは基本的な情報をお伝えしましょう。
吉福伸逸(よしふくしんいち)氏は、1943年9月に岡山県で生まれた翻訳家、セラピスト。1966年に早稲田大学文学部中退後、ジャズ・ベーシストとしての才能を認められ、1966~7年ごろに渡米して名門バークリー音楽院へ留学しました。
当時はベトナム戦争の時期であり、サイケデリック・カルチャー華やかりしころ。そんな状況のアメリカを、リアルタイムで体験したわけです。
結果として音楽家としては挫折したようですが、次いで1972年からはカリフォルニア大学バークレー校でサンスクリット語と梵語を専攻。
東洋人でありながら、西洋で東洋について勉強するという稀有な体験をしています。
1974年に帰国してからは翻訳者として活動し、ニューエイジ・ムーヴメントの先駆者的存在であるC+Fコミュニケーションズを創設。
1989年にハワイへ移住し、2013年に他界するまで彼の地で暮らしました。
そんな吉福氏の功績のひとつが、スピリチュアル思想などとともに「トランスパーソナル心理学」をいち早く日本で紹介したこと。
1960年代に生まれたトランスパーソナル心理学は、精神分析、行動主義、人間性心理学に次ぐ第四の勢力として知られる心理学の一分野。
その先導者として、『トランスパーソナルとは何か』(春秋社)などの著作を残しています。
そして、そんな吉福氏が生前に残した多くのテキストのなかから、対談、講演、エッセイなど、過去の著者に収録されていないものをまとめたのが本書。
第1章にはアメリカから帰国した1974年からC+Fコミュニケーションズを設立するまで、第2章にはトランスパーソナル心理学導入を中心として積極的に活動していた1980年代、第3章には1989年以降のハワイ移住以降の活動がまとめられています。
きょうは第3章「響きの宇宙と意識の変容」のなかから、現代人にも訴えかける印象的な部分をクローズアップしてみたいと思います。
まずは「癒し」についての考え方を述べた部分から。
魂の時節
「癒し」は、現代人にとっても興味のある概念。
著者はこのことについて、「癒しの作業」は日常生活と同じように、連綿と続いていくものだと述べています。
たとえば週末の2日間とか一週間、あるいは一ヶ月程度日常から離れることでなんとかなるようはものではないということ。
もちろん、そういう特殊な場をつくることによって架空の癒しを体験することは不可能ではないでしょう。
事実、それらはなにかを味わわせてくれたり、気づきのきっかけをつくってくれたりもしたそうです。とはいえ、本格的なトラウマや傷を癒すということにはならなかったというのです。
そのため、そうしたやり方には限界があることを痛感したのだといいます。
そして、「できるだけ人のいない田舎でひっそりと暮らしていくほうが、自分には向いているのではないか」と思うようになったそう。
そこで日本を離れてハワイに移り住み、自然と触れ合っていくというプロセスを経てきたわけです。
すると、セラピーよりはるかにいいんです。林を開墾して、畑をつくって、海に行って……というように自然にふれていく作業をつづけているうちに、セラピーよりはるかに速いスピードで、自分自身の癒しのプロセスが進んでいきました。
ぼくはそのときに、「魂の時節」ということを感じました。
癒しのプロセスがそんなにはやく進んだのは、ぼくの魂が、それを非常に求めていた時期に差しかかっていたからではないか。
もしかしたら、そのまま日本でセラピーをつづけていたとしても、同じことが起こっていたのかもしれませんが……。(386~387ページより)
その結果、著者にはセラピーというより、日常の自然界とのふれ合いを通したほうが、癒しのプロセスが進行したという実感を得たのだそうです。
ただし、それは「自分が癒された」という意味ではないのだといいます。
なぜなら、人間は一生癒されないと考えているから。癒しの作業は死ぬまで続き、そのとき認識できるかどうかは別としても、死後にも続いていくものだと考えているというのです。
だから「癒し切る」などというものはないと考えてはいるものの、少なくともそれ以前よりは、ずっとつきあいやすい自分を感じることができるようになったのだということ。
これは、現代人にも共感できることなのではないでしょうか?(386ページより)
自我の確立すらできない人たち
また興味深いのは、「自我の確立」についての考え方です。
自我の確立について考えた場合にわかるのは、本当の意味で深層心理的に自我を確立できている人と、理性でコントロールして、あたかも自我が確立したかのようにふるまっている人がいるということ。
大半が後者であるわけですが、それはなぜかという問いについて著者はこう答えています。
誰もが自我を確立させるだけの余裕を社会はくれない。そのために合理精神で自らの大切な部分を切りさいなみながらごまかして、あたかも自分だけは自立しているかのように社会的に見せている。
その分何が起こるかというと、家庭に帰った時にその反動で妻や子供にあたってしまう。身近の弱い存在にあたってバランスをとっている。(409ページより)
この部分は、現代の虐待などの問題にも通じるように感じます。まじめな人であればあるほど、自主的に自分を抑えている人ほど、突然そういう状態になりがちだというのです。
そのことについて著者は、「発達段階でちょっと不健全な形でフィクセーション(固着)が起こる」と表現しています。
フィクセーションとは、成長発達の過程で特定の部分であるとか特定の認識に固着してしまってそこから離れることができないということです。そのために健全な発達を阻害してそこから発達していないわけです。
逆行といいますか、専門用語でいうと、発達停止ということです。(411ページより)
もうひとつ。この発言を受けた、対談相手である天外伺朗氏とのやりとりも痛快です。
天外……ほとんどそういう人が社会を牛耳っているんではないかと思います。政治家として立候補するとき、「俺が俺が」っていうエゴが強くなかったら立候補しないですよね。
吉福……ですから、何言ってもいいんだとしたら、政治家はまず信用しないほうがいい。人格者はいません。現代社会で成功している人の大半はニーズに応えて発達停止を起こしている人がほとんどです。それが通用しますし、それを社会が要求しているんですよ。(411ページより)
この発言から現代の政治家や政治状況を思い出してしまう人は、決して少なくないはず。
そういう意味では、吉福氏は当時から現代を見据えていたと解釈することもできるかもしれません。(409ページより)
一般人には理解しづらいような専門的な話題も多く、決して読みやすい内容でないのは事実。
しかしことばの断片を追っていくと、このように新鮮な意見を見つけ出すことができるでしょう。そしてそれが、現代人にとってのヒントとなる可能性は大いにあります。
だからこそ、時間をかけてゆっくり読み進めていきたい一冊だといえます。
Photo: 印南敦史
Source: サンガ