嶽本野ばらロングインタビュー (聞き手=川本直)「恋と革命の美学」 嶽本野ばら著『純潔』(新潮社)刊行記念

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純潔

『純潔』

著者
嶽本 野ばら [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104660063
発売日
2019/07/29
価格
3,190円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

嶽本野ばらロングインタビュー (聞き手=川本直)「恋と革命の美学」 嶽本野ばら著『純潔』(新潮社)刊行記念

[文] 読書人


嶽本野ばら氏

■第4回 退屈でないドストエフスキー

――『純潔』はそのほとんどが政治もしくはオタクカルチャーについての長大な議論を基に進行する、形式としては異色の小説です。私は『新潮』(二〇一九年九月号)に書評を書くにあたって、類似性を感じたのが作中でも言及のあるドストエフスキーの諸作、トーマス・マンの『魔の山』、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』でした。『純潔』は完全にバックボーンの違う、それぞれ固有の語彙を持った登場人物たちが延々と議論を交わします。これはやはりミハイル・バフチンがドストエフスキーに見出したポリフォニー小説という概念が『純潔』には当てはまると思い、書評にはドストエフスキーと書いたのですが、今思うと登場人物たちが隔離された場所で長大な議論を行う『魔の山』も下敷きになさったのかもしれない。アニメ研究会が『魔の山』のサナトリウムなのではないかとも考えています。

嶽本 『魔の山』もそうなのですが、関連付けて比較すると、わかりやすいのはドストエフスキーだと思うんです。でも、できるだけドストエフスキーにならないように。ドストエフスキーって本当に退屈じゃないですか(笑)。何回も同じような話を繰り返してまたその話かということを延々と話す。もちろん、あの形式を読む快楽もあるのですが、退屈という部分もあって、イメージだけを残したまま退屈にならないように、緩慢にならないように、読み飛ばせるように書いた。ですから、これだけ束が厚いですが、多分頑張れば一日で読めると思います。これだけ厚い本ですが、二回読ませたいのです。一回読み終えて、ああようやく終わったと思うんだけれど、次の日にまた最初から読みたくなってしまうような小説にしたかった。おそらく二回読んだときに読者の方が最初に読んだ印象と変わってくるセンテンスが出てくると思います。そこはやはりテクニック的に狙って書いたところです。

――作中では石川啄木や宮沢賢治が引用されていますが、野ばらさんは戯曲も手掛けておられて、最近だと戯曲『アマリリス改外伝 white album』(二〇一六)、『戯曲「劇版鱗姫」』(二〇一八)がありますが、演劇的な台詞の応酬から会得されたことも活かされているのでしょうか。

嶽本 自分の中で小説よりも戯曲及び詩歌の方に気持ちが流れて、できるだけ詩に近いものにしていきたいという気持ちが強くなったんです。大江や三島を読みはじめたと言いましたが、詩もだいぶ読み直しました。あとは大江健三郎の好きなイエィツとかマラルメなども、文章をどうシャープに完成させるかというテクニック的な部分を学ぶために読み直しました。

――野ばらさんはオタク時代にライトノベルもかなりお読みになっておられます。ライトノベルは文章に現代的な処理を施しているのが特色ですが、参考にされたり影響を受けたものはありますか?

嶽本 ラノベはそれまで読んだことがほぼなかったんです。それでラノベの「涼宮ハルヒ」とかを読んで、あまりにも自分たちの文脈と文体も含めて違うところに衝撃を受けました。一行ごとに改行して進行する感じとか、批判的な意味ではなくこういう種族がいるんだと。 

――描写を極端に節約して会話とモノローグで繋いでいく。まさに新種ですね。先ほど太宰治とおっしゃっていましたが、太宰治の『斜陽』や埴谷雄高の『死靈』なども参考にされたのでしょうか。

嶽本 『死靈』は読み返してはいないのですが、気にはしていました。

■第5回 初期衝動/ストイシズムとフェミニズム

――花田清輝は「スウィッチ・オフ」(『近代の超克』所収)という評論のなかで、石坂洋次郎の『麦死なず』を取り上げ、コミュニストの生態を観察して、ただの性欲に還元してもらっては困る、という趣旨の批判をしています。しかし、『純潔』では語り手の柊木殉一郎、新右翼の大松広平、新左翼の李明正とヒロイン北据光雪の四角関係が描かれるものの、彼らは恋愛で活動を破綻させることなく、革命を行動に移し、理想に殉じます。私は八方破れで人情味溢れる新右翼・大松広平がとても好きなのですが、野ばらさんがこの作品で語り手の柊木に純潔を貫かせたのは、理想こそが大切だ、ということと痴情のもつれで革命が挫折するのはおかしい、という思いがあったのでしょうか。

嶽本 できれば革命の話を書いてみたいという最初の初期衝動はまだ一〇代の頃でした。ですから詳しいことは覚えていないのですが、安保の頃に学生たちが大学の構内に籠城したりしていたと思いますが、学生運動もある種ファッションみたいなところもあったし、流行りで運動に参加している人たちもいたのではないかと思うのですが、当時の週刊誌などでは、ああやって立てこもったりしている中では実はフリーセックス状態になっているとか書かれていたんです。実際に大学生の中でもそれを鵜呑みにして期待して参加していた人もいるらしいのですが、そういう風説が七〇年代にあったようです。警察官が過激派の大学生の男の子を取り調べたときに、取り調べの中で「お前ら、中でそういうことをやっているんだろう」と下世話な質問をしたら、その男の子は吃驚してそんなこと考えてもみませんでしたと。その男の子は理想のために、世界同時革命を果たさなければいけないということだけで参加していてそんなことを思いもしなかったし、その質問の意味が分からなかったらしいんです。それで逆に聞いた方の警察官が、自分がいかに邪な思いを持っていたかということを反省したみたいな話を聞いて、その男の子はカッコいいなと思ったんです。そういうエピソードが印象に残っています。

――野ばらさんの作品には、ストイックに理想を信じる方がカッコいいという美学が、『それいぬ』の頃から一貫してありますね。

嶽本 僕自身はストイックでも何でもないのですが、そういうものに憧れはあります。

――野ばらさんの小説では、初期の『ミシン』から恋愛に対して非常にストイックな、禁欲的と言ってもいい姿勢が見られます。それは『純潔』において最高潮の高まりを見せており、実際、柊木殉一郎は「独占や権力を渇望すること、そしてそれを行使することが悪なのではない。それらに拠って他者を支配しようとする行動に悪がある。僕達は何も支配することは出来ず、する権利を持たない」と述べて、純潔を守り、性行為を否定します。最近の反出生主義に繋がるようにも感じましたが、このようなストイシズムはご自身の中でどのようにして生まれたのでしょうか。やはりキリスト教的なものの影響でしょうか。
 
嶽本 キリスト教は信者ではないにしろ、聖書は折に触れ思い出して読んでいて、日常でも割とキリストのことを考えていることが多いんです。発生当時にしてみればキリスト教はユダヤ教に対して異端でテロみたいなものだったわけですよね。それでいろいろ読み直すと、キリストって女性に優しいんです。たぶん反発勢力というのは女性というのは穢れたものであり人間として下なものだというコモンセンスがあって、それを彼が女性も同等なんだということを言ったり行動したことが一番過激なことだったのではないか、という気さえします。

――先ほど戦争は男性がするものだというお話がありましたが、野ばらさんの中にフェミニズムの意識はかなりあるのですか?

嶽本 多分フェミニズムだとは思うのですが、ただ、フェミニズムのとらえ方や女性そのもの男性そのもののとらえ方自体も、それぞれが独自の解釈で共通項が定まらないと思うのです。フェミニストなんだけどフェミニストとも言いづらい。何年か前にCOMME des GARÇONSのデザイナー川久保玲が、自分はフェミニストだと言ったんです。彼女はあまりメディアなどで発言しない寡黙な人ですが、それまではフェミニストだと言うことによって、変にウーマンリブ運動みたいなのに共鳴していると思われるのが嫌でそれを言わなかったのだろうけれど、でも誤解されてもいいから私には私のフェミニズムがあって、私はそれを実践しているということをどこかで言いたかったんだろうなと思ったんです。

■第6回 「天皇制共産主義」というオルタナティヴ

――経済のことについてお聞きしたいのですが、新右翼の大松広平は「金やないんや」と呟きます。主人公たちが福島に樹立しようとする天皇制共産主義国家では、経済格差を解消するためにベーシックインカムを導入しようとするのだと思います。現実の世界では現在、保守の『表現者クライテリオン』が消費税増税に反対し、左派でも経済学者の松尾匡教授による薔薇マークキャンペーンが行われました。また両者とも反緊縮の立場を取っていて、MMT(現代貨幣理論)を巡る議論も活発化しています。

嶽本 資本主義的なものを否定しようとしている人も、本当には格差のない世界とか社会というものをイメージできていないと思うんです。生まれたときから資本主義の中で育って資本主義が染みついている人間がいくら頑張ってもその枠からイメージを超えられないというか、歯切れの悪さみたいなものがあると思います。逆に少しだけ出てきますが資本主義を急速に推し進めたアナキズムの方が共産主義に近くなるという側面もある。

――野ばらさんがこの小説で一番批判したかったのは新自由主義、もっと言えば拝金主義でしょうか。そこで是正したいのは格差なのでしょうか。

嶽本 いえ、格差はあっていいと思うんです。やり方としては、資本主義でも共産主義でもどっちでもいい。さらに言えば君主主義でもよくて、どれでもいいはずなんです。今の拝金主義みたいなことも、結局すべてに値段が付けられるというのは、一つの価値観しかない世界ということですよね。ですから拝金主義が悪いわけではなくて、お金が一番だと思っている人はそう思っていればいいし、心が一番だと思っている人はそう思っていればいい。それぞれがそれぞれの価値を持っていればいいんだけれど、結局のところ拝金主義が最も効率よくてクレバーな考えであるというのを、多分僕も持っているし、みんなが持っている。僕は今実家で母親と妹と暮らしています。家は貧乏ですが、もちろん拝金主義ではないわけです。お金がすべてだと思っていれば、もうちょっと何とかしようとする。でも雑談の中でも落としどころは最終的にはお金の話をしているんです。たとえばテレビを見ていてタレントが出てきたら、「あら、この人結局うまいこと稼がはったなあ」とか(笑)。最終的な落としどころがお金の話になっていて、結局それが論理的な話になっていると思っている。

――ただ、それが絶対的な価値観だと思っている人もいますよね。『純潔』では、そうではない価値観を提示したいということだったのでしょうか。

嶽本 そういう問題でいえば、この本を読んだ人の中で、多分三パターンに分かれてしまうと思うんです。一人目は彼らの革命に対して全く否定的な人、二人目は独立した福島にバックパックを背負って参加する人、三人目として福島は応援するけれど行く気はなくて日本に残る人がいて、その三人目は実際に革命が起こったときにどっち側なんだという二人に分かれると思うんです。書いている人間としては、当然バックパックを持って福島に行く側なのですが、そこはやはり読んでいる人の中でも分かれると思います。

――本書では、主人公たちの革命、福島を独立させ、日本の中に独立自治の天皇制共産主義国家を作るというオルタナティヴな選択を読者はどう受け止めるか、という問いかけをなさっているように思いました。

嶽本 失敗するかもしれないけれど参加しようとする人と、とりあえず傍観しておいてうまくいくようだったら、ちょっとずつにじり寄ろうかと考えるタイプの人と二パターンいるだろうと思っています。

聞き手:川本直氏

週刊読書人
2019年9月13日号(第3306号) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読書人

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