からっぽの「原型」から少しずつ人間ができていく旅程

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某

『某』

著者
川上弘美 [著]
出版社
幻冬舎
ISBN
9784344035041
発売日
2019/09/12
価格
1,760円(税込)

根源的な問いかけで解かれゆく人間ができていく旅程

[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

 人が存在するとは、どういうことなのか? 少なくとも、自分が存在すると自覚できるのは、ある程度、記憶にかかっているのではないか? 我思いだす故に、我あり。

 では、記憶が一切なくなり、名前も性別もわからないとしたら、あなたは「私」として生きていけるだろうか?

「私」とは、個人とは、生きるとは、死ぬとはなにか? 『某』はそんな根源的なことを次々と問いかけてくる小説だ。

 ある日、ある人物が病院にやってくる。仮に「某」と呼ぼう。それ以前の記憶がまるでなく、検査をしても染色体が不安定で、男女の判別がつかないという。「某」は入院して、医師とのセッションを通じて「治療」を受けることなる。最初に擬態したのは、「丹羽ハルカ」という高校二年生の女子だ。感情の起伏があまりないキャラクターだが、日記をつけはじめ、漠然とした好き嫌いは感じるようになる。

 しばらくすると、つぎの人物に移ることを医師に勧められ、こんどは「野田春眠」という高校二年生の男子に「変化」する。まさに一瞬にして、外見も声も男性的に。ハルカと同じ高校に転校し、やたらに女性とセックスをするが、まともな人間関係を築くには至らない。

「ぼくって、いったい何?」春眠は問う。

 こうして「某」は数か月から十数年のスパンでつぎつぎと別なキャラクターを演じるのだが、ある人物になったとき、自分の分身に出会ってしまう。この人物は日記に「自己愛の次の段階に、進んでみたい」と書く。このあたりからアイデンティティのねじれに拍車がかかり、やがて、「某」は自分と同族の「誰でもない者」たちに出会っていく。

「某」はある女性になったとき、自分の毎日を「小麦粉の山をのぼっているみたい」な感じだと表現する。小麦粉の山は、のぼるそばから崩れてゆく。彼女は占い師のもとで、「物語にならない物語」を文章にまとめるバイトを始めて……。

『某』に書かれているのは、からっぽの「原型」から少しずつ人間ができていく旅程なのだと思う。転生するごとに―章が変わるごとに―性欲を知り、恋を知り、他者と暮らし、共感を知り、とうとう他人のために生きる他愛というものを知る。自己愛の次の段階に至ったこの先に「某」が知るものとはなんだろうか?

 きっと読者のなかの「私」もいっぺん壊れるだろう。ラストで、「某」と一緒に見あげる星はにじんで見えるに違いない。

新潮社 週刊新潮
2019年11月28日初霜月増大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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