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心はいつしかブエノスアイレスに タンゴの調べを感じさせる美しくも暗く熱い物語
[レビュアー] 瀧井朝世(ライター)
ページをめくっているとエモーショナルなタンゴが聴こえてくる気がする。中山可穂の『ゼロ・アワー』はノワール、タンゴ、そして猫好きにはたまらない長編。
タンゴ好きの凄腕の殺し屋、通称ハムレットはある一家を殺害。唯一生き残った少女、広海はアルゼンチンに住む祖父に引き取られ、復讐を誓い、軍事政権時代に過酷な体験をした祖父から人の殺し方を習う。ハムレットと広海の人生はやがて交錯する。
ハムレットが一家を殺害した際に連れ帰った猫に愛情を抱いていく過程は微笑ましく、一方、殺しの技術とタンゴをおぼえながら育つ広海のパートは成長物語としての読み応えが。南米のパリと呼ばれるブエノスアイレスの描写も美しい、暗くも熱い物語だ。
ブエノスアイレスといえば、江國香織の『金平糖の降るところ』(小学館文庫)の舞台でもある。この街の近郊で、すべてを共有して育った日系移民の子、佐和子とミカエラの姉妹。二人は日本に留学し、佐和子は日本で結婚、ミカエラはアルゼンチンに戻り、未婚の母となる。平穏な生活が続いていたはずが、ある日佐和子は突然、離婚届を置いて故郷へ旅立つ。
少女時代にはもう戻れない女性たちが、居場所を求めていく姿と周囲の人間模様をじっくりと描き出す。
さて、タンゴとブエノスアイレスとくれば藤沢周の『ブエノスアイレス午前零時』(河出文庫)の表題作が浮かぶ。といっても、こちらの舞台は温泉。広告代理店の仕事に嫌気がさして東京から故郷の温泉町に戻り、ホテルで働いているカザマ。今では都会臭はすっかり抜け、温泉卵の匂いが染みついている。ホテルにはホールがあり、社交ダンスツアーを目的とした団体客も多い。そのなかに、視力を失いサングラスをかけた老婦人、ミツコがいた。その言動から彼女の記憶が混乱していると感じ、さらに周囲で彼女を中傷する噂が流れていることも知ってしまう。そしてダンスパーティーの時間……。
リリカルな情景が広がり、最後には読者の心もいつしかブエノスアイレスにある。