クルーズ船で遭遇する殺人事件ミステリーの傑作

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クルーズ船で遭遇する殺人事件ミステリーの傑作

[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)

書評子4人がテーマに沿った名著を紹介

今回のテーマは「休暇」です

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 アガサ・クリスティーは保養地として有名なデヴォン州トーキーに生まれたと、文庫カバーに解説してある。このイングランド南西端の海辺の町を訪ねる人が増えたのは鉄道が開通して以後のようだが、彼女の子供時代には観光客の姿がよく見受けられたのだろうか。

 そんな環境の影響かと想像させるくらい、クリスティーの小説は観光旅行と縁が深い。登場人物は有閑階級が主だし、休暇先での事件という設定も多い。『ナイルに死す』はその代表例だ。

 殺人の舞台となるのはナイル河を遡るクルーズ船の客室。『オリエント急行の殺人』と同趣向だが、客室の外に広がるエジプトの荘厳な風景がエキゾチックな雰囲気を盛り上げてくれる。

 事件のトリックはすっきりとしていて今読んでも腑に落ちる。ポアロは男女の心情の機微に通じた粋人(と自分では信じている)。その点も物語に活きている。

 ポアロ物を読むたびにイギリス人にとってフランス人がいかに珍妙な人種であるかが痛感される(ポアロはベルギー人だが)。髭をぴんと立てた洒落者ぶりとはいえ、周りには「変ちくりんな小男」にしか見えない。エルキュール(=ヘラクレス)という名前も異様だ。事件解決までじらし過ぎのこともままあるが、この作品は悠然たるテンポが心地よい。

 のちに老子の紹介や詩集『求めない』で話題を呼んだ加島祥造の翻訳が素晴らしいこなれ方だ。ヴァカンス気分に浸りきることができる。

新潮社 週刊新潮
2020年7月16日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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