『徹夜の塊3 世界文学論』
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徹夜の塊3 世界文学論 沼野充義著
[レビュアー] 重里徹也(聖徳大特任教授・文芸評論家)
◆スラブの視点で地球の隅々へ
七百ページを超える大部な一冊。ズシリと重い。しかし、読んでいる間中、不思議な幸福感に包まれた。著者はロシア文学やポーランド文学の専門家で、世界中の詩や小説に通じている。その筆が地球の隅々にまで連れていってくれるのだ。
筆致は丁寧で優しい。でも、背後に熱いマグマが流れている。この本にしばしば出てくる言葉を使えば、「愛」と呼べばいいか。そして、社会と拮抗(きっこう)してきた多様な文学への思いがそのままに人間の生を肯定する。それで、たまらない解放感を与えてくれる。
著者がスラブ文学の専門家であることが、この本に独特な視点を与えている。西欧文学でもなく、日本文学でもない。東欧という、いわば「第三の視点」を堅固に持っていて、それがすべての文学の営みを相対化する。だからこそ、各地の文学が交響する世界文学の姿が見えてくるのだ。
話題は多岐にわたっている。村上春樹が国際的に人気を集める理由をウクライナで考えていたかと思えば、エストニアの作家、ヤーン・クロスの作品を解説し、哲学者のカントとリトアニア文化の関係を論じる。ハンガリーやセルビアの作家も登場すれば、ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムへの愛を語る。ロシア人が米国のフォークナーをどう読んできたかを論じ、ロシアにおける日本文学の受容を講演する。
著者は米国ハーバード大学で古典詩を学んで以来、詩というものがこの世で一番大事だと思い続けてきたという。だから、詩人の名前もいっぱい登場する。アイルランド出身のヒーニー、ポーランドの現代詩人、ヘルベルト。やはりポーランドの詩人、タデウシュ・ルジェヴィッチやミウォシュ、シンボルスカらの作品の魅力的な一節が引用され、親しんできた谷川俊太郎や荒川洋治の軌跡を語る。
文学研究とはテクスト(文学作品)をコンテクスト(歴史的・社会的現実)に送り出し、そこからまたテクストに立ち返る精神の運動だという。この一冊はその優れた実践の記録になっている。
(作品社・5720円)
1954年生まれ。名古屋外国語大副学長・教授。著書『W文学の世紀へ』など。
◆もう1冊
チェーホフ著、沼野充義訳『新訳 チェーホフ短篇集』(集英社)。充実した解説も魅力。