山田風太郎賞受賞作、待望の文庫化! 終戦後、激動の沖縄と南米を生き抜いた少女の魂の行方は――『ヒストリア』

レビュー

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ヒストリア 上

『ヒストリア 上』

著者
池上 永一 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041095713
発売日
2020/08/25
価格
1,034円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ヒストリア 下

『ヒストリア 下』

著者
池上 永一 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041095720
発売日
2020/08/25
価格
1,034円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

山田風太郎賞受賞作、待望の文庫化! 終戦後、激動の沖縄と南米を生き抜いた少女の魂の行方は――『ヒストリア』

[レビュアー] 吉田大助(ライター)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:吉田 大助 / 書評家)

 池上永一という作家の歴史を追いかけた時、作家生活二四年目に刊行された第一三作『ヒストリア』ほど、次のような評価がぴったりくる作品はないだろう。「集大成にして新境地」。本作は、一年間で最も面白いと評価されたエンターテインメント作品に贈られる、第八回(二〇一七年度)山田風太郎賞を受賞している。

 著者は一九七〇年五月二四日生まれ、沖縄県出身。三歳までは那覇市で、その後の少年期は石垣島で育った。早稲田大学在学中に『バガージマヌパナス』で第六回(一九九四年度)日本ファンタジーノベル大賞を受賞し、作家デビュー。井上ひさしは選評で、この〈南島の年若いユタの誕生〉の物語に最高の評価を与えたと記し、〈文体に読者を誘い込まずにはおかない生き生きとした勢いがあって、さらに南の島の風や光や温度や色彩をしっかりと言語化してさえいる。それだけでも大手柄なのに、至るところに質のいい笑いが仕掛けられており、その伸び伸びとした笑いに誘われているうちに、読者はいつの間にか女主人公の魅力に降参せざるを得ないような塩梅式になっている〉。最後の一文が特に印象的だ。

「書いてしあわせ、読んでしあわせ」とでも評すべき明朗闊達(めいろうかったつ)な快作、活字の列の間から心地よい南の風が吹き上がってくる。

 著者の出身地でありルーツである沖縄の風土や物語性、シリアスな展開においても、どんな体勢からでも繰り出されガラッと空気を変える笑いの感覚、物語世界にずっと浸っていたいと思わされる心地よさ。誕生の瞬間に浴びせられたこの祝福の声は、以降の池上作品を語るうえで今も有効だ。

 例えば。幽霊になって二二八年目となる盲目の美少女と、彼女と出会うことでマブイ(魂)を落とした島の少年が世界崩壊の危機に挑む第二作『風車祭』(一九九七年刊)。それまでの伝奇的想像力を未来SFへと転化させ、「戦う美少女」の大暴走を追いかけた第七作『シャングリ・ラ』(二〇〇五年刊)。一九世紀末の琉球王朝を舞台に、男装して宦官の職に就いたヒロインの「一人二役」成り上がり人生を綴った第八作『テンペスト』(二〇〇八年刊)。一八世紀初頭の琉球王朝で、二人の天才舞踊家が当代随一を意味する「月しろ」の座を巡ってしのぎを削る第一二作『黙示録』(二〇一三年刊)。

 いつからか──もしかすると既に第二作の段階から、池上作品は「熱量」「マジックリアリズム」のワードと共に語られるようになった。面白ければなんでもアリ精神で詰め込まれた情報量と超展開が、「過剰!」「そんなバカな!!」という読者の興奮を引き出してきたのだ。物語世界を構成する要素の多くは、沖縄という舞台、沖縄という題材から導き出されている。とはいえ実は、さまざまな物語カルチャーによって培われた著者の尽きせぬ想像力を、なんでもかんでも盛り込める器、「耐熱皿」が、沖縄なのかもしれないなとも思う。

池上永一『ヒストリア』上巻
池上永一『ヒストリア』上巻

 本作『ヒストリア』においても、上述した作風は存分に発揮されている。だから、「集大成」。では、「新境地」の部分はどこにあるのか。それは本文一行目の時点で、しかと刻み込まれている。

一九四五年三月二十三日 沖縄本島。

 歴史(ヒストリー)という単語の語源であり、「史書」を意味するラテン語がタイトルに掲げられた本作は、真正面から沖縄の現代史を取り上げた、著者にとって初めての小説である。もちろん、沖縄の物語を語ることは、大なり小なり、沖縄の歴史を語るということでもある。これまでの作品でも描かれてきてはいたが、明らかにフェーズが異なる。

 先の日付けを皮切りにリアルタイムで進行していくのは、日本におけるほぼ唯一の本格的な地上戦として知られる、第二次世界大戦終戦間際の沖縄戦の様相だ。〈少女だった〉という記述から十代半ばから後半あたりと推測される「私」こと知花煉は、アメリカ軍の空襲に遭い、九死に一生を得る。〈以来、私は私でなくなった〉。家族はみな死んだ。だが、ガージュー(強情)でチュラカーギー(美人)な少女は、苛烈な生命力の持ち主だった。日本軍の敗戦でとうに終わっているはずなのに終わらない戦争を、身一つでサバイバルしていく。まるで地獄そのもののような絵面、轟音、臭い、激痛。著者の選択としては極めて珍しい、一人称で綴られていることも相俟って、ヒロインの五感が突き刺さってくる。

 ようやく終戦を迎えた沖縄は、〈一万年前の石器時代〉に戻ってしまっていた。煉は〈世界から色みを取り戻す〉ために、あえて着飾り、あえて微笑む。そして、米軍が廃棄したパラシュートを物々交換で手に入れ、洋服の生地に再利用して一〇〇倍の価値へと変える。彼女は驚くべき商才&商魂の持ち主だったのだ。実在した初代琉球列島高等弁務官ジェームズ・E・ムーアらとの交流も得て、ビジネスの地盤を盤石にした……と思った矢先、同棲していた男・安里和義の裏切りで無一文となり、共産主義活動家であるとして指名手配を受ける。明治の時代から沖縄人にとって現実的な選択の一つであった、海外への移民を試みようとしていた男・伊計陽介と偽装婚約し、沖縄を脱出。辿り着いたのは、南アメリカ内陸部に位置する国、ボリビアだった。

 そこから先は、著者にとって更なる「新境地」の幕開けだ。いや、作中の表記にならって「新大陸」と言うべきか。煉は事前に聞かされていた「夢の楽園」とは程遠い荒野で、現地在住の日系人・イノウエ兄弟(セーザル&カルロス)や、現地で絶大な人気を誇るチョリータ・プロレスの女王・カルメンらと手を組みながら、商売を行い、農業に従事する。過酷な自然環境に何度もひざまずきながらも、この土地で戦い、この土地に根を下ろすことを決断し続ける。

 沖縄からボリビアへ移民した人々の歴史や葛藤、「コロニア・オキナワ」と呼ばれる移住地の存在は、まぎれもない現実だ。著者は執筆を開始する約二〇年前、二七歳の時にその存在を偶然知り、いつか書こうと構想を練っていたという。単行本刊行時に本人の口から語られていたそのエピソードは、次の事実を照射している。沖縄の人々にとっても、ボリビア移民の存在は知られなくなっている。その歴史は、語られなくなっている。だからこそ、作家である自分が書くことで、伝える。

下巻
下巻

 著者は山田風太郎賞を受賞した際、「海のないオキナワ」と題された小文を発表している。それは、取材した現地の人々への手紙だ。〈「必ずあなたたちの物語を伝えるから」/取材最終日、日系三世の子どもたちとの別れ際に、そう約束しました。その約束を少しだけ果たせたかな? と今、目頭を熱くしながら受賞を喜んでおります〉。「少しだけ」どころか、大いに果たせている。この物語は、ボリビア移民を知るための「入り口」として機能している。

 文芸の世界で、先行事例がないわけではないのだ。例えば、沖縄出身の初の芥川賞作家・大城立裕の「南米ざくら」。ブラジル、ペルー、アルゼンチン、そしてボリビアに移住した沖縄の人々を、国ごとに描いた『ノロエステ鉄道』(一九八九年刊)に収録された同短編は、ボリビアに移住した息子を、故郷の久米島へ引き揚げさせようと試みる父親の物語だ。自然主義文学、記録文学としての側面が強い。

 池上永一が採用したアプローチは、「どエンタメ」にすることだった。資料を読み込み現地取材をかけながら、作品世界の地盤ならしは周到に敢行した。そのうえで、貪欲さと過剰な生命力を持ったヒロインを放流した。波瀾万丈このうえない彼女の人生を追いかけることで、ボリビア移民の歴史を記録する、そんなアクロバットに成功したのだ。それだけじゃない。沖縄のユタ(霊媒師)いわく、煉は空襲のあった日にマブイ(魂)を落とした──第二章に挿入されたエピソードが物語に浮上してくるのは、第五章以降だ。落としたマブイ=性格や思考の異なるもう一人の知花煉が、肉体を伴ってこの世に降誕し、ボリビアに根を下ろした「本物」ではなし得ない、別の人生を歩み出す。

 その人生をも追いかけ始めた物語は、チェ・ゲバラとの恋愛(!)といったエピソードと共に、新たなる歴史を記録することとなる。アメリカとソ連の東西冷戦に象徴される、戦後の世界史だ。核戦争一歩手前まで至った一九六二年のキューバ危機は、知花煉とその仲間たちが防いでいたなんて!! 当然、想像力の賜物だ。だが、魅力的なフィクションの回路を通して描かれるからこそ、キューバ危機の切迫感や解放感が、ノンフィクションのそれとは異なる次元で読み手の胸に刺さる。物語作家としてここまで歴史とタイマンを張れる人は、世界中を見渡してもほとんどいない。

 何よりも注目すべきは、終わり方だ。この物語は、一九四五年の沖縄戦及び終戦から始まり、一九七二年の沖縄の本土復帰のピリオドで終わる。この時間軸の切り出し方は、沖縄を舞台にした物語──沖縄文学の「定型」である。「定型」をぶち壊すような物語ばかりを書いてきた作家が、初めてそれを受け入れた作品である、と言える。それはなぜか? 「定型」には、語り継がれてきた力があるからだ。その力をも借りて、著者は沖縄の現代史を語り継ぐこと、読者の胸に直接叩き込むことを、初めて自覚的に試みている。

 本作は、戦後七〇年の区切りに小説誌で連載された。そして二〇二〇年の今は、戦後七五年となった。沖縄戦を肌身で知る人々──知花煉のように当時十代半ばから後半あたりの人々──は、鬼籍に入りつつある。つまり、当事者たちの生の声は消えつつあるという悲しい事実がある。ならば歴史を語り継ぐことはできないのか? まったく違う。何故ならば、過去を生きた人々の言葉は残っているからだ。たとえ残されたものが不完全な断片だったとしても、人間には想像力がある。ならば、書ける。そうした意志と覚悟が、架空のヒロインの「物語」を通して、現実の「歴史」を語る、本作の試みに著者を向かわせたような気がしてならない。その意義は、一〇年後、一〇〇年後により強く体感できるものなのかもしれない、とも思う。

 何はともあれとにかく、闇雲に面白い。そして、かつてない読後感を味わうことができる。池上永一の「集大成にして新境地」である本作は、彼にしか書き得なかった「最高傑作にして代表作」である。

▼池上永一『ヒストリア 上』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322002000921/

KADOKAWA カドブン
2020年11月04日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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