北野武、渾身の私小説はどうやって書かれている?――北野武 著『浅草迄』(細馬宏通 評)

レビュー

8
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浅草迄

『浅草迄』

著者
北野武 [著]
出版社
河出書房新社
ISBN
9784309029214
発売日
2020/10/24
価格
1,430円(税込)

書籍情報:openBD

「俺」の停滞

[レビュアー] 細馬宏通

「足立区島根町」は、著者自身の一番古い記憶の話から始まる。母親におんぶされながら近所のおばさんにほっぺたを撫ぜられ、「たけちゃんは誰の子?」と訊かれると、必ず「アメリカ人の!」と答えていた、と書いてから、著者はすぐに、自分の記憶の出所を疑い出す。「いざ自分が書くとそれが本当だったのか、どっかで記憶が誰かのものと混線してるんじゃないかと思ったりもする」。それから、同じ記憶を、こう記し直す。「で、幼い俺は『おいらはアメリカ人の子!』と近所のおばさんに宣言してたってところだ」。

 ビートたけしの著作でしばしば用いられてきたおいら/オイラという一人称には、自身の来歴や悪行をなんでも語ってやろうという、トム・ソーヤーのような悪童気分があった。その「おいら」が、「で、幼い俺は」の一文では括弧に入れられ、「俺」という一人称のもとで語り直されている。「俺」が「おいら」を語るのだという態度がはっきり顕れている。

「俺」の幼少期から始まった話は、ときにあちこちしながらも、どうにかこうにか時系列に従って進んでいくのだが、途中ではっきりと停滞し始めるのが、大学受験を志すあたりからだ。大学を目指すのかと思ったら、ビートルズの話になる。兄たちの話になる。1964年の東京オリンピックの話になる。ようやく受験勉強の話に戻ったかと思ったら、泳ぎに行ってしまう。「あ、そうだ、大学受験の話だ」。「足立区島根町」の「俺」は、見えない時間の壁に阻まれでもしたかのように、いつまでも大学に行けない。

「俺」は両親のことを情愛を込めて語る一方で、そういう両親がわけもわからずありがたがっている大学に入るということとの間に折り合いを付けかねている。親がすっかり信じ込んでいることを実現するのは、親を騙している気がして、つい、親を裏切ってしまう。「足立区島根町」の「俺」には、このようなためらいがあり、自身の想起を我知らず停滞させてしまう。「おいら」にはない含羞だ。

「浅草迄」は、その後、ようやく大学に入ってからの話だが、ここでも「俺」の話は、大学にたどりつくことはほとんどなく、手前の新宿あたりに停滞する。ジャズ喫茶に入り浸り、友人とアパートを借り、想起の時間はますます鈍る。しかも、そんな「俺」の行動を見透かしたように、母親の援助がこっそり行われる。大学のことを思い出そうとすると、母親を裏切ったつもりが母親に見透かされている自分を思い出すことになる。「俺」の想起は鉛のように重くなる。

「随想─浅草商店街」は、他人の話だから、前の二作よりずっと想起の足取りが軽い。ポール牧についてはなぜか二度語られる。「またポール牧師匠の話だが」。その語り口に、「これも仁和寺の法師」という徒然草の調子を思い出した。

河出書房新社 文藝
2020年冬季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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