とても不条理で切実な物語 ノンフィクション作家が緊張感を持って読んだ長編小説『チェレンコフの眠り』

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チェレンコフの眠り

『チェレンコフの眠り』

著者
一條 次郎 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103398738
発売日
2022/02/18
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

とても不条理で、切実な物語

[レビュアー] 稲泉連(ノンフィクションライター)

不条理で不可思議、ユーモアと悲哀に満ちた書下ろし長編『チェレンコフの眠り』が刊行。新潮ミステリー大賞受賞作家・一條次郎による作品の読みどころをノンフィクション作家の稲泉連さんが語る。

稲泉連・評「とても不条理で、切実な物語」

「一條次郎」という作者の名前を見て、この小説は気持ちを整えてから読み始めなければならないぞ、と思う。一條さんという小説家は、過去に彼の作品を読んだ経験のある人にとって、そのようにちょっとした緊張感を抱かせる作家ではないだろうか。

 私にとってもそうだった。

 今から六年ほど前、デビュー作の『レプリカたちの夜』を読んだ。職業柄、普段はノンフィクションを読むことが多いのだけれど、当時は新聞の書評の仕事をしていた事情もあって、あまり馴染みのなかったジャンルの小説も積極的に読むようにしていた。『レプリカたちの夜』もまた、新潮ミステリー大賞受賞作という帯の惹句を見て、何とはなしにまずは頁を開いてみた一冊だったのだが……。

 多くの動物が絶滅した近未来と思しき世界。動物のレプリカ製造工場で働く主人公が、ある夜、いるはずのない動くシロクマを目撃し、その正体を探り始める――そんなふうに始まる物語を読み出してすぐ、私は思い知ることになった。「これは好きか嫌いかという以前に、何とはなしに読み始めるには少し危険な本だったようだ」と。

 同書では終盤に「夜」を呼ぶ巫女までが現れ、世界が闇に包まれる奇想と挑発に満ちたストーリーが展開されていた。小さな奇妙さをより大きな奇妙さが飲み込み、先が全く読めない。それでも食らいつくように読んでいると、いつの間にかその物語世界に惹きつけられていたのをよく覚えている。

 今回は一つの体験のようだった当時のそんな読書を思い出し、息を整えるようにして本書『チェレンコフの眠り』を手に取った。そして、いま読み終えて思うのは、本作も実に一筋縄ではない魅力を持つ作品だった、ということだ。

 本書の主人公は「ヒョー」という名の喋るアザラシである。印象的な装丁のイラストにもある通り、ヒョウアザラシの「ヒョー」。極悪なマフィアのボスであるチェレンコフと暮らしている。

 物語は〈生命線プラザ〉という邸宅での誕生パーティの場面から始まるのだが、冒頭から警官隊の手入れを受け、チェレンコフは撃たれて死ぬ。マフィア映画のクライマックスを彷彿とさせる銃撃戦と殺戮の後、組織は瞬く間に壊滅。主人の庇護を失ったヒョーは、空腹を抱えて外の世界へ恐る恐る飛び出していく――。

 そうして彼が巡る世界が哀しげで意味深長なのだ。

 町の大通りは〈何年もまえの地震でがたがたに波うったまま〉で、家々の戸口は板や鎖で閉ざされている。その情景は3・11の地震や原発事故後の帰還困難区域の町の姿を二重写しにしたものであり、被災地を長く取材してきた私にも様々な思いを抱かせた。

 物語では乱雑とした市街地は汚染され、ときおり空からプラスチックのアヒルやゴミの混ざった雨が降る。そんななか、どこか無機質でそれぞれに異形な人々――レストランの店主やヒョーを歌手デビューさせようとする謎の男、ジェンガのような巨大ビルに暮らす町の影の大物の女――に翻弄されながら、アザラシの漂泊の旅は続く。

 主人を失ったヒョーには帰る場所というものがない。行く当てのない旅のなかで、次第に彼の思いは自らの「故郷」であるはずの海へと向かっていく。〈生まれた場所に帰りたい気がするんだ〉とチェレンコフの幽霊にヒョーは話し、氷河の崩壊によって海に沈んだという町に思いを寄せる。ただ、ヒョーはかつてプールで溺れたトラウマを持つ泳げないアザラシでもあった。何よりたとえ彼が泳げたとしても、この終末的な世界の海はひどく汚染されているのだが――。

 なんと哀しい話なのだろう。全ての命の故郷であるはずの海を人が汚す。それは、自らの還る場所を失うということだ、と故・石牟礼道子さんが晩年の随筆で書いていたのをふと思い出した。では、帰る場所のない孤独なアザラシの旅は、いったいどこへ向かっていくのか。音楽や皮肉の効いたユーモアの魅力も相まって、読み進めるうち、次第にそのシュールな世界にやはり私は引き込まれていた。

 本書はとても不条理な物語だが、それ故の切実さを以て胸に迫ってくるものがある。現実の社会において忘れてはならなかった何か、あるいは、忘れ置かれてしまったままの何かが、そこに確かに表現されているからだろうか。あまりに危うく脆そうに見える物語世界を、どうにか繋ぎ留めていく著者の筆致に身をゆだねながら、作家の想像力と言葉を紡ぐ力とはすごいものだ、とあらためて感じた作品だった。

新潮社 波
2022年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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