『ベイルート961時間(とそれに伴う321皿の料理)』
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内戦後のレバノンを彩る 多弁で朗らかな食卓の情景たち
[レビュアー] 大竹昭子(作家)
レバノンと聞くと何が思い浮かぶだろう。長くつづいた中東戦争か、最近だと元日産会長のカルロス・ゴーンがスパイ映画さながらに脱出した先だろうか。いずれにせよ日本人には想像力が働きにくい。
パリ在住で、翻訳者・詩人・作家と複数の顔をもつ著者は大の料理好きで、家でパーティーを開けば二十品目は作らないと納得できないほど。しかもオリエントに魅了されてイスラー厶文化諸国の旅を繰り返した時期があるなど、場所と料理の関係に長らく関心を寄せてきた。
そんな次第でレバノンの首都ベイルートに滞在して一冊本を書かないかという依頼が現地の作家協会から届いたときは即承諾。料理を通して街の肖像を描くというテーマを掲げて食にまつわる話を聞き集めた。本書はそれらに自身の記憶と考察を加えて書かれた一ヶ月半(九百六十一時間)のクロニクルである。
受け入れ先のスタッフの反応がおもしろい。レジデンス作家のほとんどが内戦のことを扱うが、食べ物をテーマにしてくれたのがうれしかったと述べる。この言葉には大いに頷かされた。もし外国人が自分の国に抱くイメージが内戦一色だったら、どれほど哀しく無念だろう。
レバノン人同士は内戦について話さないが、彼女が食べ物の思い出を尋ねると、決まって戦争に関連する話が彼らの口をついて出た。しかも、戦争について話してくださいと頼んだら決して現われないようなおもしろいエピソードが! 食べ物の話題は人の記憶をこじあけ、多弁で朗らかな人間にする。
執筆している間、これほど書いている内容に確信がもてなかったことは今回がはじめてだったと著者は告白する。それでも書く手を止めなかったのは、ベイルートが食物、戦争、空腹、社会階級、情動などの問題が一堂に会する場所だったからだ。料理の力がそれらをひとつに撚り合わせるさまを示した驚愕の書。