女性が作家として立つことが困難な時代を描く 直木賞作家・窪美澄の最高傑作『夏日狂想』とは

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夏日狂想

『夏日狂想』

著者
窪 美澄 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103259268
発売日
2022/09/29
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

架空の女性作家への熱いオマージュ

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

『夜に星を放つ』で直木賞を受賞、デビュー作から「性」や「生」に向き合い描いてきた作家・窪美澄による長編小説『夏日狂想』が刊行。時代に抗いながら「書く女」を描き出した本作の読みどころを、評論家の川本三郎さんが紹介する。

川本三郎・評「架空の女性作家への熱いオマージュ」

 関東大震災のあと急速に復興をとげた東京は、明治の東京とは違った、新しいモダン都市に生まれ変ったが、その顕著な特色は、女性の社会進出が進んだことにある。

 当時の新しい女性の職業、マネキン・ガール(現在のファッション・モデル)をして詩人、丸山薫の生活を支えた丸山三四子は回想記『マネキン・ガール 詩人の妻の昭和史』(時事通信社、一九八四年)のなかで昭和初期は「ガールの全盛時代」と書いている。

 ガソリン・ガール、円タク・ガール、ショップ・ガールなどさまざまな仕事の現場で女性が働くようになった。カフェの女給や映画女優もこの時代の職業婦人だった。

 本書の主人公、礼子もそうした「ガール」、つまりモダン都市に登場した新しい女性である。明治三十七年、広島市の生まれ。林芙美子(三十六年生)や佐多稲子(三十七年生)と同世代になる。

 広島のキリスト教系の女学校を卒業し、早くから「自立」の思いが強かった。

 父が早くに亡くなったこともあり、女学校を卒業すると、しばらく会社勤めをしたが、そのあと思い切って東京に出た。このあたり、尾道の女学校を出たあと東京に出た林芙美子に似ている。

 礼子の夢は、松井須磨子のような女優になること。たまたま知り合った川島悟という詩人に連れ出されるように東京に出て女優を志すが、大正十二年の関東大震災で東京が壊滅したのでやむなく京都へ行き、今度は映画女優を目ざし、マキノ撮影所の大部屋女優に雇われる。

 京都で水本正太郎という三歳年下の詩人志望の少年と知り合い、やがて同棲するようになる。

 ここまで読んでくると徐々に分かってくる。この少年詩人は中原中也がモデルであること。とすれば礼子は、若き日の中也の恋人、文学史上、恋多き女として語られる長谷川泰子であると想像出来る。

 さらに付け加えれば、礼子を東京へと連れてゆく詩人は永井叔、そして、京都で礼子が水本を通じて知り合ってゆく文学青年たち――例えば、水本が慕う、若くして肺結核で死去する滝沢清は富永太郎、礼子が水本のあとに同棲する片岡武雄は小林秀雄がモデルになっていることが分かる。彼らの疾風怒濤の青春を描く近代文学史にもなっている。

 しかし、著者の狙いはモデル小説を書くことではない。礼子という、男性の文学者のあいだを遍歴してゆきながら、なお若い頃の自立への夢を捨てず、なんとか書くことによって一人立ちしてゆこうとする新しい女の悪戦苦闘にある。

 東京に出て来た礼子は蔦川みどり(モデルは長谷川時雨)の主宰する雑誌『女人文壇』(『女人芸術』)に文章を書くようになる。この雑誌には服部道子という同世代の女性が書いていて、この雑誌を出発点にして人気作家に成長してゆく。いうまでもなくこのモデルは林芙美子。

 この服部が、酒場で働いている礼子を叱咤する言葉が素晴しい。

「男とのことを書きなさい。それで自活なさい。男に頼る生活なんてもうおやめなさい。それは当たりのないクジのようなものよ。外れ! 外れしかないのよ。自分で当てるほうが何倍も効率がいいから」。貧困のなかから苦労して作家として立った林芙美子らしい迫力である。

 その言葉に押されるようにして礼子は、戦中、戦後と暮しを共にした橘健吾という、坂口安吾を思わせるような作家と別れ、一人になって書き始め、作家として認められる。

 広島出身の礼子が原爆で死んでゆく少女のことを心に秘めて筆を執るのが胸を打つ。

 まだ女性が作家として立つことが困難な時代に生き、ようやく認められた先輩に対する、現代の女性の作家による思いのこもったオマージュになっている。

新潮社 波
2022年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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