リベラリズムは時代遅れなのか……フランシス・フクヤマが書いた擁護論『リベラリズムへの不満』の読みどころ

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リベラリズムへの不満

『リベラリズムへの不満』

著者
フランシス・フクヤマ [著]/会田 弘継 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学、その他
ISBN
9784105073213
発売日
2023/03/17
価格
2,420円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

あのフクヤマが書く堂々たるリベラリズム論

[レビュアー] 宇野重規(東京大学社会科学研究所教授)


リベラリズムの真の価値とは?

 歴史的名著『歴史の終わり』の著者フランシス・フクヤマによる一冊『リベラリズムへの不満』が刊行された。

 リベラリズムへ向けられる理論的批判に答えつつ、リベラリズムの価値と再生への道を提示した本作の読みどころを、東京大学教授の宇野重規さんが紹介する。

宇野重規・評「あのフクヤマが書く堂々たるリベラリズム論」

 タイトルは『リベラリズムへの不満』であるが、内容は堂々たるリベラリズムの擁護論である。ただし、あのフクヤマが書くリベラリズム論である。右派のポピュリズム、左派のアイデンティティ政治によるリベラリズム批判に応えつつ、ジョン・ロールズに代表される現代アメリカのリベラリズムともはっきりと距離を取る点に特徴がある。ロールズの立場が中道左派的なリベラリズムであるとすれば、フクヤマは中道右派的なリベラリズムとも言える。コンパクトな本であるが、極めてバランスの取れた「王道」的なリベラリズム論であろう。

 フクヤマというと、冷戦終焉時に論文「歴史の終わり?」(後に『歴史の終わり』として刊行)を執筆し、自由民主主義の最終的勝利を唱えたイデオローグとして理解する人もいるかもしれない。しかしながら、訳者あとがきで詳述されているようにフクヤマの「世界的論客としての息は長い」。特に二一世紀になってからでは、『政治の起源』と『政治の衰退』(原著はそれぞれ、二〇一一、一四年)が重要である。

 人類史レベルでの政治の発展を展望するにあたり、フクヤマは古代ギリシア・ローマではなく、中国においてこそ「国家」の発展が見られたとする。その一方、政治の発展を評価するにあたっては、「国家」の発展だけではなく、「法の支配」と「民主的アカウンタビリティ」が重要であると論じる。この三つの要因で現代政治も捉えるフクヤマは、「法の支配」による権力均衡が行き過ぎるアメリカと、「法の支配」や「民主的アカウンタビリティ」に欠ける中国を対比する。現代政治学の達成をバランスよく総合したこの枠組みは、権威主義国家の台頭が見られる今日、ますます有力な分析手段となっている。

 本書『リベラリズムへの不満』についても、同様な印象がある。左右の攻撃から古典的リベラリズムを擁護するのみならず、今後の政治的議論の立て直しのための説得的な見取り図を提供しているのが魅力的である。

 フクヤマに言わせれば、現代のリベラリズム批判は、その思想的本質を否定するものではない。むしろ特定の解釈によって極端化したことが問題であり、だとすれば必要なのはリベラリズムを「穏健化」することである。先ほどの政治の三つの要因について言えば、リベラリズムの本質は「法の支配」であり、「民主的アカウンタビリティ」とともに「国家」を制約することが重要である。現代の権威主義者が権力分立を攻撃し、司法を私物化しようとしているのを見れば、「法の支配」をあらためて強調するフクヤマの意図は明らかだろう。

 古典的リベラリズムにおいて重要なのは多様性を統治することにあり、寛容こそがその理念になる。「法の支配」は財産権とともに経済発展を支えたが、現代の新自由主義は適切に法を執行する国家までを敵視するに至っている。新自由主義による過度な不平等がリベラルな民主主義を脅かしていることに明確に批判的なのも本書の特徴の一つである。

 一方でジェンダーやエスニシティなどの差異の問題をリベラリズムが正当に扱っていないという左派のアイデンティティ政治からの批判に対しては、リベラルな国家が多様な集団を承認し、法的地位を与え、財政的支援を行なっていることを確認しつつも、リベラリズムの対象があくまで個人であり、集団ではないことも強調する。

 リベラルな社会は事実に基づく開かれた科学的な検証を不可欠な要素とする。これに対し、現在のネットに溢れるのは、「自分が好む現実」に対する強い志向によって「動機づけられた推論」である。フクヤマが「科学」を信じるのでなく、自由で開かれていて、経験による検証や反証に依拠する「科学的方法」を信じることが重要であるとしているのも注目される。

 最終的にフクヤマは、多様な人々が良き生き方について合意できないことを前提とするリベラルな社会において精神的な空虚が残ることを認めつつ、リベラリズムの原理と政府の形態に代わるものがないことを結論づける。またリベラリズムの普遍主義がナショナリズムと緊張をはらむことを見据えながらも、「法の支配」に必要な強制力を持つ国家と、人々の連帯や忠誠心の源泉としての国民国家を認める。やはりリベラリズムにとって、国民にサービスを提供し、富や所得の再分配を行なう、質の高い信頼に値する国家が不可欠なのである。

 最後にフクヤマが言及しているように、本書の結論は実に「中庸」である。しかしながら、学知に支えられたバランスのいい「中庸」が、現在求められている。そのことを思わせる一冊であろう。

新潮社 波
2023年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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