詩と人間洞察とシニカルな心。昨今のハードボイルド小説解説に漂う“死者の影”

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詩と人間洞察とシニカルな心。昨今のハードボイルド小説解説に漂う“死者の影”

[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)

 今回の書評は、どうしてこうも“死者の影”がまとわりつくのだろう。それは多分新潮文庫の〈海外名作発掘〉の一冊として刊行されたロス・トーマス『愚者の街』(上下巻、松本剛史訳)に原りょうが解説を書く約束をしていたと聞かされてしまったからだろう。

 しかしながら原りょうは今年の五月四日に急逝してしまったためその約束が果たされることはなかった。代わりに「ミステリマガジン」一九九六年十二月号に掲載された原の「ロス・トーマスの魅力」という愛情にあふれたエッセイが収録されている。この文句のつけようもない傑作に新稿の解説を書きたかったろうと、読後の充実感は比類が無いのに、鬱々としてしまったのは私だけではないだろう。

 そんな思いを振り切ってハンナ・ティンティ『父を撃った12の銃弾』(松本剛史訳、文春文庫)について書こうとしたらこれまた素晴しい作品だった。

 ただしここでも池上冬樹の解説を読むと、またぞろ“死者の影”に出くわすではないか。池上は熱心な海外ミステリファンでもあった藤沢周平のハードボイルド論を引き「世界から詩を汲み上げる心情と深い人間洞察の眼、それと主人公のシニカルな心的構造が釣合って一篇のハードボイルドが誕生する」と記している。藤沢自体、『消えた女』等、優れた時代ハードボイルドの書き手だったし、存命ならば、ティンティの作品を夢中で読んだことだろう。

 真っ当に書評を書こうと思っていても、こう“死者の影”に襲われるようでは随分とヤキが回ってきたとしか言いようがない。

 結局のところ“死者の影”と無縁に書評を書くには、半世紀以上前に書かれた本の新訳版を取り出してこなければならないようだ。

 J・D・カー『幽霊屋敷』(三角和代訳、創元推理文庫)の新訳版はどうであろうか。多少の無理はあるものの、古式ゆかしきトリック、マニア心をくすぐる展開、この一巻を読み、やっと落ち着いてこの書評を閉じることが出来る。そう言えば大学受験中であって、私はカーの死を知らなかった。恥ずべき事である。

新潮社 週刊新潮
2023年6月22日早苗月増大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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