秘密を抱えた艶めかしい「叔母」と二人だけで過ごした夏の日……幻惑の作品

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日暮れのあと

『日暮れのあと』

著者
小池 真理子 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163917047
発売日
2023/06/09
価格
1,815円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

艶めかしい姿が浮かぶ、その描写、表現 巻頭の「ミソサザイ」は必読である!

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

 文章に情動が脈打っている。

 小池真理子『日暮れのあと』は七つの物語を収めた最新短篇集だ。用いられた文章の、それ自体が生きているような力強さ、思わず触れずにはいられない質感に心を奪われる。

 表題作は、老境に達した童話作家の主人公が、ある人物との出会いから恋愛に年齢は関係ないと改めて思い知るという内容である。どの短篇にも人生の秋や冬に足を踏み入れた人が登場するが、幻想色の強い「喪中の客」や、亡き人を悼む気持ちを描いた「白い月」あり、すれ違いの残酷な恋愛物語「アネモネ」ありで、内容は多岐にわたっている。新型コロナ蔓延の情景を効果的に使った「微笑み」も切なくていい小説だ。

 どれも素晴らしいが、巻頭の「ミソサザイ」は必読である。題名は、主人公の武夫が叔母の告別式に参列した日、火葬場で小鳥が鳴き交わしているのを聞いたことに由来している。左(さ)知(ち)子(こ)という叔母は、武夫の少年時代、同居して家業を手伝っていた。口中に「甘ったるい水をふくんでいるような、しとどに濡れたものを絶えず転がしているような」調子で話しかけられると黙って頷くしかなかった、という情景だけで彼女の艶めかしい姿が浮かび上がる。

 左知子にはある秘密があったため、幸薄い人生を送ることになった。その哀しみを隠して生きていたのだが、武夫は左知子と二人だけで過ごした夏の日に、彼女の知らない一面を垣間見てしまう。大人の心を覗いてしまった後ろめたさと自らの内から湧き起こる情動を律しきれず、武夫は懊悩する。その官能表現たるや。

 リアリズムの文章で書かれているのだが、全体に紗を掛けたような不透明感があり、見通すべく目の焦点を合わせると、そこに驚くような表現があって胸を衝かれる。表現と物語の起伏とが一体になって読者を幻惑するのだ。ページをめくるたび、どこかに連れ去られるような感覚があった。おそらくは幽冥の彼方へと。

新潮社 週刊新潮
2023年7月6日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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