現役の産婦人科医が描いた“お産の現場” 生命の誕生を支える医師たちの奮闘

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

あしたの名医

『あしたの名医』

著者
藤ノ木 優 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101046518
発売日
2023/09/28
価格
880円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

生命の誕生を支える医師たち

[レビュアー] 吉田伸子(書評家)


新しい命の誕生に産婦人科医はどう関わっているのか?(写真はイメージ)

 現役の産婦人科医・藤ノ木優が執筆した小説『あしたの名医』(新潮社)が刊行された。

 本作は、地方の産婦人科専門の病院に異動を命じられた大学医局員が、地域の命の砦を守る重責を感じつつ、個性ゆたかな先輩医師に学びながら成長してゆく姿を描いた作品だ。

 圧倒的な技術と絶対的な権力を持つセンター長や院内を実質的に仕切っている女性部長、スキンヘッドで強面の上級医、天才肌の先輩医師など、お産の現場を圧倒的な臨場感と迫力で描いた小説の魅力とは?

 文芸評論家の吉田伸子さんが読みどころを語る。

吉田伸子・評「生命の誕生を支える医師たち」

 息子を産んだ日は雪が降っていた。

 お産には潮の満ち引きや月の満ち欠けが関係する、とよく言われるが、気圧も関係あるのかも、と思ったのは、息子と同じ日に生まれた新生児が、他に5人もいたからだ。

 無痛分娩を選択できる産科があることで、地域では人気の総合病院だったとはいえ、同じ日に同じ場所で6つの命が誕生するとは! と生命の不思議にしみじみとしたことを今でも覚えている。だが、それは出産した身の感慨であり、その命の誕生に向き合う医師たちにとっては、6人もの出産は全く別の意味合いを持っていたのだな、と本書を読んで初めて知った。そして、改めて、母子ともに無事に出産を終えられたことを感謝したい、と思った。

 本書の主人公は、「1年で戻すから」という期限付きで、天渓大学医学部附属伊豆中央病院(通称「伊豆中」)に異動を命じられた、大学医局員・北条衛だ。「伊豆中」は総合周産期母子医療センターを有しており、業務のほとんどを産科関連が占めている、産科救急特化型の施設だ。ようやく婦人科の腹腔鏡手術の術者を任されるようになり、その道のエキスパートを目指していた衛にとって、産科主体の「伊豆中」への異動命令は、思い描く将来からの回り道でもあった。

 加えて、わずか半年で「伊豆中」から逃げるように戻って来た6年目の医師・佐伯からのさんざんな「伊豆中」評を聞かされていた衛にとって、「でも、飯だけは美味いぞ」という言葉は、何の慰めにもならず、移動中の電車内ではため息ばかり。センターを率いる三枝教授という絶対権力者の存在も、衛の心に重くのしかかる。医師の好き嫌いが激しく、「妊娠出産で職場を空けるから女性医師の異動を三枝が拒絶している」という話もあるのに加え、治療や検査の手順には三枝によって事細かに決められた「教授ルール」なるものが存在するのだという。ルールに異議を唱えようものなら、「烈火の如く叱られる」らしい。

 三枝、どんだけ暴君よ? と思いつつ読んでいくと、なんと衛は着任初日で、緊急搬送された妊婦の帝王切開手術に立ち会うことに。執刀医は三枝で、衛は彼の圧倒的な手技の素晴らしさに目を瞠る。「全ての介助が三手遅い」とダメ出しされながらも、懸命に手を動かす衛に、三枝は「産科はどこまでやれるんだ?」と尋ねる。衛が正直に答えると、さっさと専門分野に進めてしまうため、産科を最低限できる医師が減ってしまっている本院のシステムへの不満を漏らす。思わず「すみません」と謝ってしまった衛に、三枝は言う。「なぜお前が謝るんだ」「産科のひよっこなのも、場違いな施設に突然異動になったのも、別にお前の責任じゃあないだろう」「だったらせいぜい胸を張って、ひよっこらしく仕事をしていろ」。

 この、三枝の「なぜお前が謝るんだ」という言葉、本書の終盤にも出てくるのですが、これがね、もう、もう! 詳しくは実際に読んでいただくとして、物語が進んでいくにつれ、三枝がなぜ「ルール」を編み出したのか、そこに至る過程が明かされているので、この言葉になおさらぐっとくるのだ。

 衛の上司であり、三枝の片腕で「伊豆中」を実質的に仕切っている部長の城ヶ崎塔子、衛の先輩医師である下水流明日香とスキンヘッドの田川、医局では後輩だったが「伊豆中」では先輩にあたるイケメンの神里、塔子を崇める看護師・八重、と脇役たちのキャラ立ちも抜群で読ませる。なかでも、伊豆を愛し、地域の人たちを家族のように大事に思っている塔子の過去に関するドラマがいい。彼女のドラマがあることで、「伊豆中」の有り様がさらに意義深いものとなっている。

 産科のひよっこだった衛が、何で俺がこんなところに、と嘆いていた衛が、医師としても人としても成長していく様は読んでいて引き込まれる。加えて、本書で描かれる“お産の現場”の圧倒的な臨場感と迫力。第五話の「峠を越えてきた命」では、とりわけその緊迫感が半端なく、胸がばくばくしたほどだ。安全にお産ができるのは、病院のシステムはもちろんのこと、熟達した産科の医師たちがそこにいてこそ、のことなのだ。一つの生命の誕生は、多くの人の手によって支えられているのである。

 ヒューマンドラマとしても秀逸な本書だが、伊豆のグルメガイドの側面もまた読みどころ。グルメの大元に伊豆を流れる「水」を据える、というのが心憎い。命の源である水によって、伊豆の豊かさがあるのだ。

 作者の藤ノ木さんは、現役の産婦人科医だ。2020年第2回「日本おいしい小説大賞」の最終候補に残った作品を加筆修正した『まぎわのごはん』でデビュー。本作は4作めにあたる。本業と兼業だとお忙しいとは思うが、「伊豆中」での衛の日々の続きを読みたい、と願うのは私だけではないはずだ。

新潮社 波
2023年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク