『鵼の碑(いしぶみ)』京極夏彦著

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鵼の碑

『鵼の碑』

著者
京極 夏彦 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784065150450
発売日
2023/09/14
価格
2,420円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『鵼の碑(いしぶみ)』京極夏彦著

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

信仰の地 絡まりあう謎

 発売されてから書評を書くまでの間に、東京都内の地下鉄でこの小説を読んでいる人を二名目撃した。ちなみに女性と男性であるが、そんな経験は初めてである。京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」の十七年ぶりの新作ということで、ただちに手にとった読者が多いのだろう。

 作品の舞台は、西暦でなく元号で呼んだ方がしっくりと合う昭和二十九年。主な場所は栃木県の日光である。題名にある「鵼(ぬえ)」は、頭が猿、胴体が狸(たぬき)、手足が虎、尾が蛇という複合動物の妖怪。その身体のようすと同じように、五つの物語が並行して進み、当初はそのつながりがわからない。確実なのは二十年前、十六年前に、殺人を匂わせる奇妙な事件が起きたことだけで、五つがしだいに絡まりあうにつれ、全体の関連と背景が明らかになってゆく。そして最後には古書肆(こしょし)の探偵、中禅寺秋彦による謎解きと、関係者に対する「憑(つ)き物落とし」へ。

 そもそも日光という場所が複雑な背景をもっている。古代の山岳信仰にはじまり、中世の神仏習合、近世の東照宮と、さまざまな時代の信仰形態が重なりながら存続し続けた。近代になると皇室との関連も深く、鉱毒事件の足尾銅山も遠くない。登場人物たちが活動するのはその狭い一角であるが、やはり複合動物を思わせる日光の全体空間に多くの人物が引きこまれ、惑わされてゆく。

 多様な宗教信仰の複合は、そのまま日本の伝統文化の縮小形でもあるだろう。謎が明らかになる過程は、登場人物のそれぞれが、戦前・戦中の歴史を鮮やかに思い出し、現在の風景に重ねてゆく営みと並行している。それと同じように、この小説を読む現代の読者もまた、作中のさまざまな話題に触発されて、この十数年間に起きた日本と世界の大事件を想起するだろう。そして、まだ「整理」されていない問題は何なのかを明らかにする「憑き物落とし」を、自分の思考のうちで始めるはずである。(講談社、2420円)

読売新聞
2023年10月13日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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