【直木賞受賞作】『ともぐい』熊撃ちを本領とする猟師と盲目の少女…社会に溶け込めない二人の末路が心を揺さぶる動物文学の最高到達点

レビュー

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ともぐい

『ともぐい』

著者
河﨑 秋子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103553410
発売日
2023/11/20
価格
1,925円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ゆらめく野性に喰らいつくもの

[レビュアー] 東山彰良(作家)


熊撃ちを本領とする猟師の人生とは(画像はイメージ)

 人間と動物の物語を書いてきた作家・河崎秋子さんによる最新作『ともぐい』(新潮社)が刊行された。

 明治後期の北海道の山で熊撃ちを本領とする猟師・熊爪を主人公に、人間、そして獣たちの業と悲哀を描いた本作について、作家の東山彰良さんが読みどころとを語る。

 穴持たずの熊との格闘、蠱惑的な盲目の少女との出会い、そしてロシアとの戦争に向かってきな臭さを漂わせる時代の変化が狂わせてゆく運命とは?

東山彰良・評「ゆらめく野性に喰らいつくもの」

 むくつけき猟師が宿敵の熊と死闘を演じる。その闘いをとおして彼はおのれを見つめ直し、幸福のなんたるかを知り、最後にはなまぬるい人間界へ堕ちるか、さもなければ孤高の魂を手放すことなく雪山に果てるか――読みはじめてすぐにそんな筋立てが見えたのだが、結論から言えば半分ほどは当たっていた。

 時代は日露戦争前夜、国家が戦争へと突き進む混乱は北海道の片田舎にも波及し、町で暮らす人々の生活を侵食しつつあるが、熊撃ちを本領とする熊爪の人生は単純明快な原理にのっとって動いている。獲物を狩ってその肉を喰らう。彼のすべてはその一点にかかっている。殺生は生きていくうえで必要な行為にすぎず、そこに善悪や悲喜の入り込む余地はない。殺したほうが得ならばためらうことなく殺すし、そうでなければ殺す必要はない。ただそれだけのことだ。

 そんな熊爪にとって、ほかの人間たちは異物以外のなにものでもない。彼らは煩雑で、熊爪には理解不能な行動原理に縛られている。だから熊爪は人里離れた山中に独居し、獲物が獲れたときだけ町へ下りて肉や毛皮を商う。人生とはその繰り返しで、いかなる変化も煩わしいだけだ。「お前の幸福というものは、何だろうね。あるいは、幸福というものを感じる能力が、お前にはあるのか、ないのか、どちらだろう」懇意にしている大店の主にこう言われれば、熊爪はこう切り返す。「毎日、なんも変わらなければ、それでいい」

 しかし、この有為転変の世界にあって、変化は否応なくやってくる。ある日、熊爪は熊に襲われた瀕死の男を救う。聞けばその男も猟師で、はるばる熊爪の山まで熊を追って来たのだという。しかも、ただの熊ではない。追跡者を返り討ちにしたのは冬眠を逃した「穴持たず」で、すでに何度も人間の集落を襲っている凶暴な個体だ。熊爪の縄張りに厄介な極道熊が入り込んでしまった。

 前述のとおり、熊との死闘はもちろんある。それによって熊爪が作り変えられ、彼なりに悟りを得るのもまた定石どおりだ。その過程で大自然の美しさ、残酷さ、人間存在の曖昧さ、危うさを活写していく筆も冴えている。しかしこの作品の凄味はなんといっても、私の読みが当たらなかったあとの半分にこそ宿っている。

 獣肉や毛皮を売りに行く大店で、熊爪は盲目の少女・陽子を見初める。男女の葛藤については、すでに多くの先人たちによって取り上げられてきた。生活を共にする男女がそれぞれの領分を守るために、もしくは相手の領分を侵略するために永劫不変の葛藤を繰り返す。が、本作ではその葛藤がより原始的で、けだものじみている。時代は明治に入り、人々は文明開化の洗礼を受けたとはいえ、舞台は文明社会から遠く隔たった北海道の僻地だ。厳しい自然のなかでの生活は、今日の我々の目から見ればまだ充分に荒々しい野性を残している。

 そのなかでも、熊爪と陽子の放つ野性はひときわ異質で濃厚だ。社会に溶け込めない、もしくは社会に組み込んでもらえないという意味で、ふたりともたしかに半端者なのかもしれない。だから、同類相哀れむのも理解できる。だけど、彼らの軸足がかかっている場所は根本的に異なる。二十一世紀的なジェンダーの概念など吹き飛んでしまうくらい、ふたりの立場は揺るぎなく凝り固まっている。こう言って差し支えなければ、けっして超越できない性別の壁によって分け隔てられている。彼らは男女ではなく、そう、一対の雄雌なのだ。さながら雄熊と雌熊が生存をかけて闘うように、熊爪と陽子も守るべきものを守るために本能をむきだしにして喰らい合う。

 クライマックスで熊爪が垣間見せる人間性は、彼を幸福にしたのだろうか? たとえそうだったとしても、逆説的には、という保留がつくかもしれない。陽子の揺らぎを、これもまた愛のかたちなのだと割り切ることができれば楽なのだけれど、この物語では西洋から輸入された概念としての愛の出る幕などない。熊爪と陽子はただおのれの来し方で掴み取ったもの、経験によって魂に刻みこまれたものだけを武器に現実に立ち向かったにすぎない。それでも最後の瞬間、熊爪はたしかに獣であることをやめた。あるいは、より高次の美しい獣になった。陽子は求めるものを手に入れた……。

 ともぐいの果てにふたりは理性の光を見たのだ、とうとう人間になれたのだ、とは言いたくない。ふたりは最後まで人と獣のあいだで揺らいでいた。人間の部分で相手をいたわり、獣の部分で攻撃した。あるいは逆に獣の部分で相手を慈しみ、人間の部分で恐れた。それが熊爪の在り方だったし、陽子の在り方でもあった。ふたりの末路に悲しみを感じることさえも、彼らの本質からすれば、上から目線の人間的感傷にすぎない。野性はそんなものをいっさい寄せつけない。今日的な幸福というちっぽけなヒューマニズムでは測れない、むきだしの物語だ。

新潮社 波
2023年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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