抑制的なればこそ溢れ出る品格 翻訳から俳優まで絶品の味わい

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抑制的なればこそ溢れ出る品格 翻訳から俳優まで絶品の味わい

[レビュアー] 吉川美代子(アナウンサー・京都産業大学客員教授)

 30年以上前にカズオ・イシグロの『日の名残り』を読んで以来、私にとって品格という言葉は「日の名残り」と同義語になった。

 第一次大戦後から第二次大戦後にかけて英国貴族の豪壮な屋敷「ダーリントン・ホール」の執事としてダーリントン卿に仕え、卿の没後、屋敷の主がアメリカ人になってからも執事を続けているスティーブンス。彼がよく口にするのは「品格」という言葉。彼は英国の田園風景の美しさに品格を感じ、偉大な執事とは名門貴族に仕える執事ではなく、品格ある執事であると考える。心の内を決して見せない初老の執事スティーブンスが、初めての短い旅の間に回想する古き良き時代の出来事……。第一次大戦後、非公式の重要な国際会議が屋敷で開催されたこと。準備に追われる中、同じく執事として働く老父が倒れても、仕事を優先して看取れなかったこと。女中頭ミス・ケントンが彼に想いを寄せていることに気づき、自分も彼女に好意を持ちながら、仕事上の関係を超えないよう冷淡ともいえる態度を取ったこと。そして、彼が35年仕えた敬愛するダーリントン卿が、ナチスに肩入れしたという汚名を着せられて失意のうちに亡くなったこと。胸に秘めてきた思いが静かに語られ、二度と帰らぬ日々が彼の脳裏に鮮やかに蘇る。土屋政雄氏の美しい日本語は見事にこの小説の精神を伝え、品格ある翻訳が感動をより深いものにした。

 映画でスティーブンスを演じたのはアンソニー・ホプキンス。貴族を演じても違和感ない堂々たる風貌と存在感だが、ここでの彼は目の動きや動作のすべてが抑制的で、執事=使用人としての域をはみ出さない。それでいて実直かつ有能な執事らしい品格を漂わせているのはさすが。ミス・ケントン役はエマ・トンプソン。スティーブンスへの想いを必死に断ち切ろうとする女心をこれまた抑制的な演技で見せる。旅の最後に、ミセス・ベンとなった彼女とスティーブンスが20年ぶりに再会。雨のバス停で二人が別れるラストが切ない。遠ざかるバスの中で涙を流す彼女と涙をこらえて見送る彼。そして、それぞれの人生に戻っていく……。

新潮社 週刊新潮
2024年1月18日迎春増大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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