『時の睡蓮を摘みに』葉山博子著

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時の睡蓮を摘みに

『時の睡蓮を摘みに』

著者
葉山 博子 [著]
出版社
早川書房
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784152102966
発売日
2023/12/20
価格
2,090円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『時の睡蓮を摘みに』葉山博子著

[レビュアー] 遠藤秀紀(解剖学者・東京大教授)

大戦下ハノイ 漂う人々

 大戦中のハノイ。ヴィシー官僚とドゴール派が睨(にら)み合うフランスの統治は翳(かげ)りを見せ、新たに力ずくで現れたのは五族協和を唱える日本だ。北からは蒋介石と中共の両勢力が浸潤し、重慶から汪兆銘が逃亡してきた。親日を仄(ほの)めかすシャム人にナチス党、斜陽の植民地を抱える英国も入り乱れる。独立を模索するベトナム人ですら、反日反仏を掲げるホー・チ・ミンに必ずしも結束していない。欺瞞(ぎまん)と傀儡(かいらい)と宣撫(せんぶ)の渦に巻かれながら、登場人物の人生の歯車は、当人たちの予期し得ない方向へ回り出す。

 混沌(こんとん)極まる社会を背景に、異国の日本人が虚構の舞台を生きる。いや、漂流するのだ。綿花交易を営む駐在員の父のもとに、娘の鞠(まり)が逃げてきた。生まれる時代を間違ったのだろう。日本の古典的婦人像と相容(あいい)れず、当たり前の嫁入り話に背を向けて、未来を深く思慮したとは思われない娘が好奇心から目指すのは、植民地のフランス系大学での自由な学問だ。

 誰が筋書きを主導するのか分からないほど、様々な人物が鞠を取り囲む。外務省の書記生でありながら、蒋介石の反戦抗日組織に身を置く男。貿易商社員を名乗って近づく工作員。タイ出身ながら国家観を棚上げにし、鞠の家で働く召し使い。アジアを斜(しゃ)に見るフランス人女子学生。そして描写に力が入るのは、日本の憲兵、前島である。貧農の三男の前島には自分で選べる生涯は無い。定めのように陸軍に入り、任地に人生を捨てていく。

 面白い。幸福も安穏も信じる相手もなく、ただ生涯を磨(す)り減らしていく人間たち。話は、戦時アジア物歌劇にありそうな悲恋や戦死の高揚感には、けっして逃げない。暗澹(あんたん)たる社会を見据え、どこまでも個人の行く末を丹念に描く。

 人物を執拗(しつよう)に掘り下げる筆の力が、魅力あふれる物語を生んだ。出自と来歴に縛られ時代に逆らうことを許されない人間たちを、静かに見つめる好著だ。(早川書房、2090円)

読売新聞
2024年1月26日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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