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- 天路の旅人
- 価格:2,640円(税込)
第一章 現れたもの
1
西川一三と初めて会ったのは十二月のことだった。私は、翌年の一月から、一カ月に一度、二泊三日の予定で盛岡に通うようになった。
土曜の午後に東京を出て、その夜と翌日の日曜の夜に盛岡で西川と会い、話をしてもらう。そして月曜の朝に東京へ戻る。
週末にしたのは、もっぱら私の事情だった。三百六十四日働くことにしている西川には平日も週末もなかったが、私の方には、突発的にどんな用事が入るかわからない平日と違い、土曜と日曜なら東京を離れていてもいいだろうという安心感があったからだ。
二度目の盛岡では、市内の中央を流れる北上川に面して建つビジネスホテルに泊まることにした。駅から北上川を渡って繁華街へと続く通りに開運橋という橋が架かっており、ホテルはそのたもとにあった。
幸いなことに、ホテルの地下に「開運亭」という名の小さな和食の店があり、そこには小上がりの座敷があった。私たちは、そこに上がり込み、開店時間に近い午後五時半から閉店時間の九時近くまで、酒を飲みながら話を続けた。
以後、そのホテルに泊まり、その店で飲みながら話すことが決まりのようになった。
私たちは、常に入店するのが早かったので、小上がりの座敷を借りるのに支障がなかった。しかも、冬のスキーシーズンが終わると土日のホテルの宿泊客はぐっと少なくなり、その和食の店全体がほとんど貸し切り状態になった。
唯一困ったのは、バックグラウンド・ミュージックとして琴による和風の音楽がエンドレスで流されているため、西川の話を録音しているテープがかなり聞き取りにくくなってしまうことだった。
その店には二合徳利があったので、それぞれ一本ずつもらい、手酌で飲むというのが常だった。西川が一日二合にしていると言っていたからだ。しかし、回数が重なるにつれ、互いにもう少し飲みたくなり、二合徳利をもう一本もらい、二人で分け合うということが多くなった。そして、時には、一本を半々というのではなく、それぞれさらに一本ずつもらい、互いが四合ずつ飲むというような夜もあった。
そんなときは、話が終わり、ホテルのエントランスまで出て西川を見送ると、表に停めてあった自転車を曳いていくその後ろ姿が、少し酔っているのではないかと思えることもあった。
毎月のその酒席では、西川の八年間の旅を、記憶によって順に辿り返してもらうことにした。『秘境西域八年の潜行』に書かれていないこともあるかもしれないと思えたし、また、書かれている文章だけでは微妙にわからないところも少なくなかったからだ。
西川の書いた『秘境西域八年の潜行』は、その長大なページ数にふさわしく、訪れた土地のことも、出会った人々のことも、起きた出来事も克明に記されている。だが、なぜか旅の全体が把握しにくい。それは、一本一本の木々は枝や葉に至るまで丹念に描かれているのに、その木々が構成している森の全体が見えにくいというのに似ていた。木を見て森を見ない、という言い方があるが、『秘境西域八年の潜行』は、木は見せてくれるものの森をくっきりとは見せてくれない、とでも言ったらよかったかもしれない。
私は「森」を見るために、西川の旅を遡行(そこう)する質問を重ねていった。
だが、時として、旅から離れて、西川の仕事や店の話になるというようなこともなくはなかった。
西川の店は大きな通りに面しているがあまり小ぎれいなものではなく、商品の入った箱などがぎっしりと積まれた乱雑なところだという。
「狭くて、汚い店です」
西川はそう言った。
だが、それも、あえて汚いままにしてあるということであるらしい。
「人はむしろ汚いくらいの方が安心するんです。通行人が道を訊くために店に入るのは、近隣の中ではうちが最も多いくらいのものでね」
そして、自分を低いところに置くことができるなら、どのようにしても生きていけるものです、と言った。
それを聞いて、私はほとんど反射的に奥崎謙三(おくざき・けんぞう)のことを思い浮かべていた。
かつて、正月の皇居で行われる一般参賀の際、群衆に紛れて昭和天皇に向かってパチンコ玉を発射して逮捕された元日本兵に、奥崎謙三という男がいた。彼は、戦場で空しく死んだ戦友の名を叫びながらパチンコ玉を発射したのだ。
「ヤマザキ、天皇を撃て!」
と。
私は、その奥崎に、逮捕され、懲役刑を受け、出所したあとで、バッテリーを商う神戸駅の近くの彼の店で会うようになった。店のガラス戸に「権力に対する服従は神に対する反抗である」と大書するなど、近隣の人から奇矯なふるまいをする人として眉を顰(ひそ)められるような行動を取りつづけている奥崎は、しかし商売人として極めて真っ当な感覚を持っていた。
あるとき、彼の『ヤマザキ、天皇を撃て!』という危険な本を、ほとんど独力で苦労の末に出してくれた出版社の編集者が、独立して小さな出版社を興すことになった。すると奥崎は、その編集者に、自分の本の版権を与えただけでなく、軍資金にと百万円をポンと渡し、こう言ったという。
「あんたは、商売というものがよくわかっていないのではないかと思うが、頭を下げるときにはしっかり下げなくては駄目ですよ」
私は、西川の商売論を聞いて、奥崎のこの感覚と近いものを感じたのだ。
西川は過去の旅について話すことをいやがってはいなかった。むしろ、月に一度、二晩にわたって酒を飲みながら話すことを楽しんでいるような気さえした。しかし、基本的には訊かれたことをポツポツと答えるだけで、自分から積極的に話すということはほとんどなかった。それは、本を書いた者として、読者と真摯に対応するという、いわば著者の義務を果たしてくれているだけのように思えることもあった。
私は、毎月のように二日にわたって西川と会いながら、依然として二人のあいだに薄い膜のようなものがあるように感じていた。それは、端的に言えば、私に対してほとんど関心を向けていないというところに現れているように思えた。私が無限に質問を重ねながら、西川は私に何ひとつ質問をしなかったのだ。
しかし、私は焦らずに待つことにした。そういうときは待つに限る。時間をかけて、ゆっくりと「逢瀬」を重ねていく。すると、いつか、状況が動き出す瞬間が来る。
そして、実際にその瞬間が訪れたのは、最初の冬が過ぎ、春から夏に差しかかった頃のことだった。
二人で辿り返している西川の壮大な旅も、日本の勢力圏にあった内蒙古から中国の青海省を経てチベットに入り、さらにヒマラヤの山塊を越えてインドに出るや、仏教の遺跡を廻りながら放浪するというところに差しかかっていた。
西川は、カルカッタ(現・コルカタ)からガヤに出て、仏陀が悟りを開いたブッダガヤに向かうことになる。親しくなった巡礼者たちと、ガヤ駅で無賃乗車の夜行列車を降り、駅前の広場で夜が明けるのを待ったという。
「僕も、ガヤの駅前で野宿したことがあります」
私が言うと、西川がごく普通の相槌を打った。
「そうですか」
しかし、そこには微かに意外そうな響きがあった。
「インドも明け方は温度が下がるんですけど、土に温もりが残っていて寝るのにちょうどいいんですよね」
さらに私が自分の旅を思い出しながら付け加えると、西川が訊ねてきた。
「巡礼を?」
それは、西川が私に向かって発した初めての問いだった。
「いえ……」
そう答えかけて、いや、あれも一種の巡礼の旅だったかもしれないと思い返し、私が二十代の半ばのときに行った、香港からロンドンまでの旅について簡単に話した。
香港からインドのデリーまではさまざまな乗り物に乗ったが、デリーからロンドンまでは基本的には乗合バスだけの旅だった。
私が、乗合バスによる通過国をひとつひとつ挙げていた、そのときだった。
「インド、パキスタン、アフガニスタン……」
すると、西川が言葉を挟んだ。
「アフガニスタンに行ったんですか?」
私が頷くと、どんな国だったか、とさらに訊ねてきた。
そう言えば、西川は、インドを放浪したあと、パキスタンからアフガニスタンに向かおうとして、印パ紛争のため果たせなかった。パキスタンとの国境に近いインドのアムリトサルから引き返さざるを得なかったのだ。しかし、私は、西川にそれほど強い執着がアフガニスタンにあるとは思っていなかったので、驚かされた。
どんな国だったかと訊ねられた私は、パキスタンからカイバル峠を越えてアフガニスタンに入ったあとの、ジャララバードから首都カブールに至るまでの夕暮れの風景の美しさについて語った。
駱駝(らくだ)を引き連れた遊牧民の長い列が、ゆっくりと横切っていく砂漠。そこをくねくねと流れ、夕陽を映してキラキラと輝いている河。それらを取り囲むようにそびえている裸の山々……。
そして、アフガニスタンの、砂漠というより土漠と言った方がいいような曠野(こうや)をバスで走るとき、羊の群れを追っている牧羊犬たちが、バスを敵と認識して突進してくる姿の勇敢さに、胸が震えることがあったと話すと、西川は、自分も遊牧民の飼っている犬たちには何度も苦しめられたという話を始めた。とりわけ東チベットのカム地方を巡礼していたときは、集落に近づくたびに獰猛な犬たちに襲われ、持っている槍で必死に応戦しなければならなかったという。そして、自分もアフガニスタンには行ってみたかったと呟くように言った。
かつて、テレビの「新世界紀行」の誘いには、一度行ったところに行っても仕方がないと断ったと聞いた。しかし、そのとき、行ったことがないところなら別だが、と付け加えたということを思い出した。
そこで、私は冗談めかして訊ねてみた。
「もし僕が、アフガニスタンに一緒に行きませんかと誘ったら、行きますか」
この頃、すでにアルカイダが権力をほぼ手中に収めかかっていたが、ジャララバードくらいまでなら行って行けないことはないように思えたからだ。
それを聞くと、西川は一瞬考えるような眼つきになり、しばらくしてから言った。
「少し、遅すぎますね」
だが、ほんの一瞬、アフガニスタン行きを本気で考えたことは確かなようだった。
「アフガニスタンに行ったのは、いつのことですか」
西川がさらに訊ねてきた。
「一九七四年、僕が二十六歳のときでした」
私が言うと、西川が意外な反応を示した。
「二十六歳……ですか。私が内蒙古を出発したのも、二十六歳のときでした」
しかし、頭の中で計算すると、一九一八年(大正七年)生まれの西川が、一九四三年(昭和十八年)に出発したのだから、かりに誕生日が来ていたとしても二十五歳でしかないはずだった。
「二十五歳ではありませんか」
私が確かめると、西川はきっぱりした口調で言った。
「いや、二十六歳でした」
そのとき、彼が満年齢ではなく、数えの年齢で言っているのだということに気がついた。戦前に生まれた人にとっては、満年齢より数え齢の方が親しい年齢の数え方だということを思い出したのだ。そして、思った。そうか、西川も「二十六歳」のときに出発したのか、と。
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