とにかく陰惨……ほぼ全員が血縁関係にある田舎町を舞台にした狂信と暴力をまとったクライムノベル

レビュー

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悪魔はいつもそこに

『悪魔はいつもそこに』

著者
ドナルド・レイ・ポロック [著]/熊谷 千寿 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784102402917
発売日
2023/04/26
価格
990円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

そもそもあり得なかったものの美しさ

[レビュアー] 江國香織(小説家)


狂信と暴力をまとった、静かなる慟哭の黙示録(画像はイメージ)

 ドナルド・レイ・ポロックによるノワール小説の最終到達点『悪魔はいつもそこに』が刊行。

 戦後まもないオハイオ州南部の田舎町で、両親亡き後、祖母と義妹と暮らす主人公アーヴィンが、家族を守ろうと懸命にもがくも、世俗の欲にまみれた牧師や殺人鬼夫婦、腐敗した保安官らの思惑に搦めとられ、暴力の連鎖へと引きずり込まれていくさまを描いた物語だ。

 フラナリー・オコナー、ジム・トンプスンをも凌駕。狂信と暴力をまとった現代ノワール小説として批評家から絶賛され、Netflixオリジナルで映画化された本作の読みどころを、作家の江國香織さんが語る。

江國香織・評「そもそもあり得なかったものの美しさ」

 この野蛮で色鮮やかな小説の魅力を、どう伝えたらいいだろう。物語は、父と息子を中心としたある家族のパートと、うさんくさいパフォーマンスをする説教師二人組のパート、ヒッチハイカーを殺しながら旅をするある夫婦のパートがからみ合いながら進む。一見べつべつに見えるそれらは、分ちがたく結びついている。

 プロローグで描かれるのは、一九五七年のアメリカの田舎町に住む父と息子だ。この田舎町は、「欲望であれ、貧困であれ、単なる無知であれ、救いようのない不運のせいで、あるいはそんな不運が重なったせいでほぼ全員が血縁関係にあった」と描写される。陰惨。そして、この町が小説の中心地であり、陰惨さこそが全編に流れる通奏低音だ。が、作者の絶妙な語りによって、この通奏低音は不思議なあかるさを帯びており、それが何とも魅力的なのだ。

 続く第一章で、時は一九四五年にさかのぼる。主人公の父親が最愛の妻と出会う、珍しく陰惨でない場面から始まるが、二人の出会うその町すら、もうすこし都会に住んでいるらしい登場人物に言わせると、「この街にはレタスひと玉も見当たらない。ここの連中が食っているのは脂ぎったものだけ、とことん脂ぎったものだけだ」ということになり、つまりこの小説の舞台は同国人にも地の果て扱いされる土地、経済的にも思想的にもアップデートされずにいる土地であり、「どこに目を向けても、国が真っ逆さまに奈落に転落しつつあるようにしか見えない」アメリカだ。そこには戦争があり、貧困があり、人種差別や偏見があり、狂信者を含む根強い宗教がある。そして、ついぞ語られることなく、時の流れのなかに儚く潰えた無数の気持ちも――。たとえば妻と共に人を殺して回っている男は、たまたま通りかかった自転車に乗った少年二人が彼に手をふり、「この世に心配事などひとつもないかのように笑いながら走り去るとき、ほんの一瞬、別人になれたらいいのにと思」う。が、別人にはなれないのだし、死期の迫った妻を救いたくてひたすら十字架に祈る男は、必要と信じた生贄のために息子の愛犬まで殺すのだが、妻に奇跡は起こらない。かつて何度も輪姦された少女(いまでは人妻)は、「いつも今度やらせてやったら、ガールフレンドのように扱ってくれて、ウィンターガーデンかアーマリーに踊りに連れていってくれるかもしれないと期待していたが、そんなことは一度もなかった」と回想する。起こらなかったこと、失くしたもの、奪われたもの、最初から持っていなかったもの、知らないもの、がこの小説内には山を成している。まるで十字架だらけの墓場みたいに。

 そこに存在するものではなく存在しないもの、そもそもあり得なかったものの美しさが胸を打つのだ。

 読みながら、正常な人と狂気の人の区別がつかなくなっていく。善玉と悪玉の区別も、歪んでいることとまっすぐなことの区別も。そういう、文明社会がどこかの時点で規定して、いまでは誰もが受け入れている(考えてみれば人為的で画一的な)区別が揺らぐ地平に、作者は読者を連れ込んでくれる。そこにいる人間たちの、ダークで詩的な豊穣さ。

 この小説のなかでは実に次々と人が死ぬ。「いつもどこかでだれかが死んでいく」というのは、でも普遍的なことだ。ときにユーモラスな語り口と、ほとんど神の視点くらい大きな視座が、陰惨な出来事にも瑞々しい生命力を与えている。

 さらに、奇妙で風味豊かなディテールが読む愉しさを加速させる。殺人現場で撮られる記念の写真や、旅回りのサーカス団、「長さ三十センチのポーランド・ソーセージを太ももに結びつけた」変質者や、朝鮮人参を探していて発見する死体、「彼女はまさにフラミンゴだった」と回想される女性――。めくるめくにぎやかさだ。人間同士が何をしていようと常にそばに在る自然界の美しさ、人間ではない生きものたち。

 ラジオから流れる曲や、さまざまなたべもの(なにかとでてくるミートローフや、ジューシーフルーツガムやキャンディバー、「クラウド・A・ハッチャーというジョージア州コロンバスの薬剤師が開発した飲み物」だというRCコーラ)が、かつて確かにあり、いまはもうない時代の空気を感じさせてもくれる。

 登場人物の一人は、自分の側頭部に銃口が押しつけられたとき、青空に浮かぶ雲を見て、「死ねばあんな風になるさ」と思う。「ふわふわと浮かぶだけだ。悪くないさ」と。そのときの彼の心持ち――いろいろありすぎてとてもここには書けないが、最終的には解放、自由、諦念、平穏――を、読者はいっしょに体感してしまう。だから、一冊読むあいだに私たちは何度も死ぬ。この本は、そういうふうにできている。

新潮社 波
2023年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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